「個人」の尊さと「評論」と「解釈」について思うこと


曲にする程じゃないこと / 月曜日, 4月 2nd, 2018

夕方から寝落ちしていて、21時頃に起きたんですが、朝の9時と勘違いして、シャワーを浴びて意気揚々と外に出たら真っ暗でした。そのまま部屋に引き返すのも癪なので、仕方なく適当に飲んで帰ってきたら、酔ってしまったので、ついでに駄文を書き散らかします。

最近ツイッターを見ているとヒップホップ論が流れてます。

研究にせよ、芸術にせよ、その文脈や歴史というのは当然に大切にしなければいけないものであって、その文脈や歴史の上に、クリエイターとメディアのチェック&バランスで、少しづつ新しいものを積み重ねていくのが、物事の道理だろうという点については大賛成です。

その上で思うのは、これまでの文脈や歴史、あるいは理論に基づいて、新しく出てきたものに白黒つけるだけじゃ全然足りないと思うんですね。それじゃ何も発展しないから。だから、「何でもヒップホップ」ではダメなんですが、「これもヒップホップかも」というのは大事な精神だと思うんですよ。

たとえば、最近の中身がないように思える曲にも、もしかしたら、見えにくい形で、抑圧された毎日の中で自尊心を取り戻そうとしているマイノリティの声が潜んでるかもしれないじゃないですか。

cupcakKeというお題を与えられて、こんなの下ネタラッパーでヒップホップじゃないって切り捨ててしまえば、それで終わりだと思うんですよ。でも「女性が露骨に下ネタを言うことって、社会的には何となく抑圧されてるよね」というところから解釈すれば、ヒップホップに繋がる糸口が見えてくることもある。

新世代の“ビッチ“ラッパー cupcakKe 下ネタキャラと引き換えに得るもの

そもそも、既存の理論に基づいて、ハミ出したものを切り捨てていくのであれば、構造的には資本主義と変わらないですよね。

僕は生まれ育った時代や環境のせいもあるかもしれませんが「個人」っていうものが何よりも尊いと思ってるんですね。

ゆとり教育で育てられて、自分らしさが大切だと教えられました。

今でも覚えてるんですが、小学校の頃の図画工作の時間に、切り絵で絵本をつくるっていう授業があったんですよ。でも、僕が下書きで、とても切り絵では作れないようなカートゥーン調のを描いてたら、「これは切り絵よりもペン書きした方が映えるから」って先生が配慮してくれて、みんな切り絵してたけど、僕だけペン書きで絵本つくらせてくれたんですね。で、学年でおもしろい作品が24個選ばれて、その年の学校のカレンダーになるんですが、そこにも選んでもらって、一個だけ切り絵じゃないやつが載って、生徒全員に配られたんですよ。小さい話かもしれないし、僕が行かせてもらってた学校が恵まれてたというだけの話なのかもしれないけれど、「こんなの切り絵にできないでしょ!描き直しなさい!」じゃなくて「おもしろいから、切り絵じゃなくてもいいよ!」という、まあ全体の調和よりも個人を大切にしてくれる環境で育ったわけです。

小学校の頃から、学校の授業でインターネットに触れていて、wikipediaで調べ物をしてました。小学6年生のときに恐る恐る初めて書き込んだ掲示板で、その掲示板で荒らしをしていた人とたまたまハンドルネーム(「ジャック」)が被ってしまい、荒らしと勘違いされ「戻ってくんな」「消えろ」「死ね」とボロカスに叩かれ、一生懸命荒らしじゃないことを説明したら「分かったけど、半年ROMってろ」と怒られるという掲示板デビューを飾りました(笑)。

いずれにせよ、小さい頃からインターネットがあり、HTMLさえ学べば誰でも自分の空間を持ってメッセージを発信できました。中学校の頃からウェブサイト作ってたし、インターネットには学校にいたら出会わない人たちがいて、どんどん繋がりが増えていきました。

高校の頃にはmixiやツイッターが出てきて、いよいよ個人が声を持つ自体が始まりました。大学に入ると、iPhoneが増えてきて、Facebookも流行りました。それからは、シリコンバレーを中心に無数にインターネットサービスが登場し、世界を大きく変えて、今に至ります。

(どーでもいいけど、この間、大人たちも、同年代の多くの人たちさえも、特に2007年頃まではインターネットはダサいという風潮を漂わせてたんですよね。今から振り返ると糞ダサいのがどっちか明確な話ですが。)

だから、僕の人生に一番大きな影響を与えているのは、ゆとり教育やインターネットによって「個人」がどんどん自由になり、発信力を持っていくという過程を、感度が高い時期に経験してきたことであり、譲れない価値観は「個人」こそが尊いということです。

僕は誰もが「個人」として表現をする機会を与えられる時代に育ったからこそ、他の「個人」の表現にも(好き嫌いはあるけれど)尊敬を持って生きたい。

そんな僕が好きなのは、カニエ、ジェイZ、ルーペ・フィアスコ、ケンドリック、Jコール、ロジック、チャンス・ザ・ラッパーといった「個人」であって、僕にとって「ヒップホップ」というのは、僕が好きな彼らについてる「タグ」なのかもしれない。

僕は多分いつも「個人」を出発点に物事を見ます。

「個人」を一員や部品としてしか扱わない「組織」や「ムーブメント」には基本的にものすごく違和感(ときには嫌悪感)を感じる。

どんなに崇高な理念を掲げていても、そのために「個人」を搾取するものであれば、もちろんバランスの問題ではありますが、僕はあまり好きじゃない。

プロセスへのコミットは退屈

絶対御免なのさ、全体主義って中指立てた結果

俺だけが見れる今があってさ

RAq – “ビルボ・バギンズ”

先ほど、「評論よりも解釈」というツイートが流れてきて、個人的にすごくしっくりきたんですね。

それは、「評論」というのが、社会や文化を持ち出して、「個人の生み出す、キラリと光るもの」(スワッグ)を蹂躙する感覚があるのに対して、「解釈」というのは、その「個人の生み出す、キラリと光るもの」(スワッグ)をすくい上げて、それが社会や文化の文脈に乗って意義を持つように頭をひねり、丁寧に説明する行為のように思えたからです。

そもそも、「評論」といわれるものの多くは、これは僕の思いつきだけど、コンテンツ数が圧倒的に足りなかった時代に、既存のコンテンツをベースに、良いだ悪いだ言って、さらにコンテンツを水増すための手法だったんじゃないですか。今はコンテンツ数が爆発してるんだから、そこからすくい上げる行為のほうが尊いと思う。

数十年、数百年後の、美術史の教科書はどうなるだろうか。2010年代を代表するアーティストの枠は白紙……「プラットフォームの台頭により、芸術は生活者のものになり、特筆すべき作品は生まれなくなった」という未来が待っているかもしれない。

だから私は、メディアを作りたい。プラットフォーム全盛期だからこそ、メディアを作らなければいけない。圧倒的な「個」を輝かせるために。

塩谷舞さん(私の作りたいメディアの話。”圧倒的スター”不在の時代を照らすもの

だから、ヒップホップの歴史や文脈はもちろん尊敬すべきだし、その上に次を積み上げていくべきだという点については大賛成だけれど、解釈よりも評論を優先して「個人」を切り捨てるものであれば、そこまでのものに過ぎないし、「個人」の中に丁寧にヒップホップと合致するものを見出してすくい上げ、ヒップホップの文脈や歴史を発展させていくものであってほしいなと思う夜でした。

わけわかんない文章を長々と書いてしまった。。。

最後まで読んでくれた方はありがとうございました。

本当は夜中にこんなの書くより、かっこいい曲で腹落ちさせるべきですね。精進します。

おやすみなさい。