逆にヒップホップ

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今日も、あるラッパーはフックをメロディアスに歌うかもしれない。あるいはバースまで。

彼は髪をブラウンに染めているかもしれないし、その髪はワックスで端正に立てられているかもしれない。彼はマイクを手に取ると、ポップに、爽やかに、リズミカルに、つまり実にコナレタ風にラップを歌い上げる。

 

今日も、あるラッパーはそれを否定するかもしれない。

あんなのはヒップホップじゃない。ユノンセン?

彼は綺麗なスキンヘッドにSupremeのキャップを被っているかもしれないし、或いは、New Eraのスナップバックを被っているかもしれない。(僕は彼が野球少年みたいに見えていないことを、ただ祈るのだけれど。)

 

そして、少なくともヒップホップ的な世界の、ヒップホップ的な法の下では、後者のスキンヘッドが正義なのだ。

つまり、仮にヒップホップの裁判所のようなものがあり、ヒップホップの裁判官のようなものがいればの話だ。ヒップホップの検察官とヒップホップの弁護士もいるかもしれない。そこでは過去にカニエ・ウェストがバースまで歌った判例では無罪である、しかしカニエ・ウェストの判例ではビートは実に重厚でありバスドラムは太いから今回の事例に当てはめるのは不適切だ、なんてやってるのだろう。(僕は法学部で2年間学んだが、法学というのは結局のところ、その程度のものなのだ。)

その裁判所では、たとえ二審あたりでワックスが勝訴しても、最終的にはヒップホップの最高裁判所のようなところでの勝負となれば、ーそして、そこには当然ヒップホップの最高裁判官たちがいるのだがー、天王山を制しているのはスキンヘッドなのだ。

 

そして、ワックスはとんでもない言葉を思いつく。

これは「逆にヒップホップ」だ。

 

 

僕はこうして2000年以上前の歴史に思いを馳せる。

そこには一人の男がいた。

彼は各地を点々としながら、弟子を増やし、教えを広めて回る。

「私たちのほうが神の国に近い。逆に救われているのだ。」

そう、彼はイエス・キリストである。

 

後に生まれるという歴史的特権を持つ僕たちは、この戦いの結末をしっている。

「逆に」は負けない。

「逆に」は科学の働かない世界だ。ニュートンの前にリンゴは落ちないし、ガリレオ・ガリレイはピサの斜塔から空高く飛んでいく錘を見上げることになるかもしれない。

 

 

ヒップホップはこうして今日も解体され、再構築されていく。

それは、正しい・間違いの問題ではなく、ルサンチマンの哲学的な問題なのだ。

 

僕たちはこの先「逆にヒップホップ」の強さの証人となって、やがてそんなことは誰もが忘れてしまうだろう。そこには当たり前のように歌うワックスがたくさんいるのかもしれない。

そして誰もがそんな逆転劇を忘れてしまった頃に、スポットライトも当たらないエッジでひっそりと、新しい「逆にヒップホップ」が芽を出すのだ。 

 

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