ヒップホップの歴史をわかりやすく解説。おすすめの本や映画も紹介。

ヒップホップの歴史

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はじめに

ヒップホップの歴史を知りたい方へ。

この記事では、ヒップホップの歴史について、以下のような内容を解説しています。

この記事の内容

  • ヒップホップってどのように誕生したの?
  • ヒップホップはどうやって広がったの?
  • ヒップホップの東西抗争ってなに?
  • ヒップホップの歴史について学べる本や映画は?

ぜひ、最後までお読みください。

*それ以外について知りたい方は「ヒップホップの教科書」からお探しください。

written by @raq_reezy

ヒップホップ(1980年代〜1990年代)の歴史

ヒップホップの誕生と3人の創始者

ヒップホップの起源

ヒップホップの起源は、DJのクールハーク1973年8月11日に開催したブロックパーティーだとされています。

妹の誕生日パーティーを兼ねて開かれたこのパーティーは、ブロンクス地区のセジュウィック通り1520番地にあるマンションの多目的スペースで開催されました。妹に洋服を買ってあげるためだったとも言われています。

当時のパーティーといえば、ディスコ音楽でした。しかし、クールハークが開いたブロックパーティーでは、ディスコではなく、ソウルファンクといったブラックミュージックが爆音でかけられました。

また、クールハークは曲の間奏部分(ブレイク)を2枚のターンテーブルを用いて永遠にループさせるブレイクビーツという手法を生み出したので、参加者はこうしたブレイクビーツで踊るようになり、ブレイクダンスが生まれました。さらに、クールハークは自分がDJをしている間、友だちのコーク・ラ・ロックに横でマイクを持って盛り上げてくれと頼むようになり、これがラップの起源となりました。

こうした新しい趣向が大当たりして、クールハークのパーティーは一躍人気となると、似たようなパーティーを開くDJたちが現れるようになります。

DJのグランドマスター・フラッシュは、スクラッチなどDJ技術をさらに極めていきました。

また、DJのアフリカン・バンバータは、こうしたブロックパーティーで磨かれていった表現手法を4大要素(DJ / ラップ / ブレイクダンス / グラフィティ)として整理しました。それに加えて、ヒップホップの4つの精神(ピース / ユニティ / ラブ / ハヴィングファン)を唱えて、地元にヒップホップを普及させました。

この3名がヒップホップを創始した3人のDJと呼ばれています。

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オールドスクール期:パーティーの現場からレコード音源へ

ヒップホップは、数々のブロックパーティーの現場で、徐々にその完成度を高めていきました。

DJの横でパーティーを盛り上げていたMCは、ただ音楽にあわせて喋るだけでなく、韻(ライム)を踏んだり、書いてきたリリックを歌うようになり、ラッパーが誕生しました。また、DJやラッパー、ダンサーがクルーを組んで、パフォーマンスを披露するようにもなりました。

こうしたブロックパーティーの盛り上がりは、そこに目をつけたシルヴィア・ロビンソンというレーベル経営者が自身のレーベル(シュガーヒル・レコード)から1979年にシュガーヒル・ギャングをデビューさせたことで転機を迎えます。

初のヒップホップ・レコードとされるシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」が大ヒットしたため、そのヒットをみたラッパーたちが次々とレコードをリリースするようになったのです。こうしてヒップホップが音楽レコード作品としてリリースされていく時代(= オールドスクール期を迎えます。

DJグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブや、カーティス・ブロウ、アフリカン・バンバータなど、ブロックパーティーの現場を盛り上げていたDJやラッパーたちが次々とレコード作品をリリースしていきました。

ちなみに、シュガーヒル・ギャング自体は本格的に活動していたラッパーではなく、シルヴィア・ロビンソンがスカウトしてきた寄せ集めで、歌詞もグランドマスター・キャズなど他のラッパーから拝借したものでした。

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ミドルスクールとニュースクール:ラップの可能性が開花

DJグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブがリリースした「The Message」という曲は、その後のヒップホップの方向性に大きな影響を与えました。

それまでのラップはパーティーを盛り上げるためのものでしたが、「The Message」でラップされた内容は、貧しい黒人の日々の生活苦だったのです。

こうして、ヒップホップは単なるパーティー音楽ではなく、ストリートの様々なメッセージを乗せることができる革新的な音楽となりました。

その後、ニューヨーク東海岸・イーストコーストでは、第1世代であるオールドスクールに続いて、ミドルスクールニュースクールと呼ばれる新しい世代のラッパーやDJ、プロデューサーたちが次々と登場しました

エリックB&ラキムやケアレス・ワンは、歌詞の内容からスキルまでレベルの高いラップを披露しました。RUN D.M.C.は、アディダスを身に纏い、他のMCを口撃する曲をつくるなど、ストリートなスタイルを提示しました。ラジオ曲で働いていたチャック・Dを中心に結成されたパブリック・エネミーは強烈な政治的主張を歌いました。

また、ポップ寄りのヒップホップを追求したア・トライブ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルも登場しました。

西海岸ではギャングスタラップが誕生

一方、1980年代にカリフォルニアロサンゼルス西海岸・ウェストコースト)に伝わったヒップホップは独自の進化を遂げました

ブラッズクリップスといったカラーギャングたちが活動していた西海岸では、そうしたカラーギャングの日常をリリックに落とし込んだギャングスタラップが発展したのです。

アイス・Tの活躍などによってギャングスタラップが広がり始めると、その完成度を高めて、過激なギャングスタラップを全米に知らしめたのがN.W.A.というクルーでした。

また、サウンド面では常夏のカリフォルニアらしいGファンクというサウンドが、N.W.A.のメンバーでプロデューサーでもあったドクター・ドレによって生み出されました。

やがて西海岸では、ドクター・ドレや2パック、スヌープ・ドッグといったラッパーたちがデス・ロウというレーベルに集い、ギャングスタラップ / Gファンクの全盛期を演出しました。

ニューヨークでもギャングスタラップが登場

ギャングスタラップは全米を制する勢いだったため、ヒップホップ誕生の地であるニューヨークでも、ギャングスタラップを取り入れようという動きがみられるようになりました。

最初に頭角をあらわしたのがノトーリアス B.I.G.でした。ノトーリアス B.I.G.は、カラーギャング文化を取り込んだ西海岸のギャングスタラップに対して、マフィア映画の世界観を取り込んだ東海岸流のギャンスタラップを提示しました。

その後にも、リル・キム、ジェイZ、ナズといった東海岸のギャングスタラッパーたちが登場し、東海岸のギャングスタラップも盛り上がりを見せました。

東西抗争とその悲しい結末

西海岸と東海岸で盛り上がったギャングスタラップは、デス・ロウの創設者であるシュグ・ナイトや、ヒップホップメディアなどが、西海岸と東海岸のどちらが優れているのかと競争を煽ったことで、2パックとノトーリアスB.I.G.を中心とするビーフに発展します。

このビーフは、東西抗争と呼ばれて注目を集めました。

しかし、ギャングスタラップの全盛期である当時のヒップホップは暴力や犯罪との距離もあまりに近く、東西抗争の結果は、何者かによって1996年〜1997年にかけて、2パックとノトーリアスB.I.G.がともに暗殺されるという悲しい結果に終わってしまいます。

西海岸のギャングスタラップを代表するレーベルであったデス・ロウと、東海岸のギャングスタラップを代表するレーベルであったバッドボーイ・エンターテインメントは徐々に衰退していきました。

ヒップホップ(1990年代〜2000年代)の歴史

ジェイZとナズとキング・オブ・ニューヨーク

東西抗争が悲しい結果に終わった後、東海岸では、ニューヨーク出身の二人のラッパーがメキメキと台頭してきました

ノトーリアスB.I.G.の友だちでもあったジェイZと、デビュー時から神童扱いであったナズです。

ニューヨークのブルックリン出身であるジェイZは、アメリカの東海岸一帯でコカインの卸売をしていた商才溢れるドラッグディーラーでした。しかし、違法なビジネスを続けていては、いつか逮捕されるかストリートで死ぬことになると考え、昔から好きだったラップに本気で取り組むことを決意。自らレーベル=ロッカフェラ・レコードを立ち上げると、ドラッグのビジネスで磨いた商売センスを駆使して、成り上がったのです。

一方、稀代のリリシストとして才能を見出されたクイーンズ地区出身のナズは、当時のニューヨークの売れっ子プロデューサーたちがビートを1曲ずつ提供し、それにナズがラップを乗せていくという伝説のデビューアルバム『Illmatic』でその存在を知らしめました。

2000年代に入ると、2人はキング・オブ・ニューヨークの座を巡る激しいビーフで争い、ヒップホップのヘッズたちを盛り上げました。

ヒップホップの拡張

また、ギャングスタラップとは路線の違うヒップホップが生まれてきたのも2000年代です。

ドクター・ドレがデス・ロウ離脱後に創設したレーベル = アフターマスは、デトロイト出身の白人ラッパーであるエミネムと契約してデビューさせます。「エミネム自身ではなく、二重人格のスリム・シェイディが歌っている」という設定(逃げ道)を利用して、過激な妄想やセレブへの口撃、下品なブラックジョークなどをラップする斬新なスタイルは、マス層の熱狂を呼び、世界的に大ヒットしました。

シカゴ出身のプロデューサーであったカニエ・ウェストは、ジェイZの創設したロッカフェラ・レコードと契約すると、ジェイZの代表作ともなる「Izzo(H.O.V.A.)」などをプロデュースして、売れっ子のプロデューサーとなりましたが、それでは飽き足らず、ラッパーとしてもデビューナードでポップなスタイルで大ヒットしました。

ここでアメリカ南部(サウス)にも目を向けておきましょう。

ここまで触れてきませんでしたが、サウスのテキサス州ヒューストンやジョージア州アトランタでも、独自のヒップホップが発展していました。東西抗争の最中には、アウトキャストというデュオがサウスから全米にその名を知らしめましたが、その後はUGKなどがサウスのスタイルを完成させていきます。

ジェイZがUGKを招いて2000年にリリースした「Big Pimpim’」によって、そのサウスのスタイルに全米から注目が集まると、2000年代後半にはソルジャ・ボーイリル・ウェインリック・ロスといったサウスのラッパーたちがチャートを制覇するようになりました。

ヒップホップ(2000年代〜2010年代)の歴史

2000年代後半には、2つの革命的な技術がヒップホップに浸透しましたオートチューンとインターネットです。

オートチューンの流行

オートチューンとは、音程を矯正するソフトウェアです。このエフェクトを録音したボーカルに対して強めにかけると、音程が矯正されるだけでなく、ロボットのようなケロケロとしたエフェクトが掛かり、気持ちの良いサウンドになることが発見されました。これによって、歌手のような歌唱力がなくても、メロディをつけて歌いやすくなったのです。

最初にオートチューンを大々的に使い出したのはTペインだとされていますが、すぐにカニエ・ウェストやリル・ウェインといったトップスターたちがオートチューンをかけて歌うスタイルに挑戦しはじめた結果、多くのラッパーたちが後に続くようになりました。

インターネットからの成り上がりが主流に

また、インターネットもヒップホップに大きな影響を与えました

2000年代後半からは、YouTubeやmyspaceといった音楽を投稿できるウェブサイトが増えたことで、ヒップホップのコミュニティがインターネット上に移行していきました。Datpiffのようなミックステープを投稿できるウェブサイトも人気となり、レコード契約を獲得したいラッパーたちは、インターネット上に自分の音源をどんどん投稿して、自身をプロモーションしていくようになります。

レーベルを通じてリリースしなくても、インターネットへのアップロードを通じて、たくさんの人に曲を届けられるようになったことで、これまではリリースされることもなかったようなスタイルや楽曲が世に出てくるようになります。

その結果、2010年前後には、数多くのラッパーたちが、実に多様なスタイルをインターネット上で提示することとなりました。

ドレイク、キッド・カディ、ビッグ・ショーン、Jコール、フューチャー、ケンドリック・ラマー、ロジック、ヤング・サグ、チャンス・ザ・ラッパーなど、2010年代から2020年代にかけて活躍する多くのラッパーたちが、Datpiffのようなミックステープ投稿サイトからメインストリームに駆け上がっています

また、YouTubeやSoundCloudから、一曲のヒットによって、一夜にして成功を手にするラッパーたちも現れるようになります。

チーフ・キーフは「Don’t Like」という曲のヒットによって、16歳にして圧倒的な成功を手にしました。その活躍をみて、さらに若い世代がYouTubeやSoundCloudに次々と曲を投稿するようになり、クラウドラップと呼ばれるシーンから新生代のスターが次々と誕生しました

トラップの全米制覇

2010年代にヒップホップの主流となったサウンドトラップがあります。

元々トラップという言葉は、ドラッグを製造する家や基地を指すスラングでしたが、グッチ・メインやT.I.、ヤングジージーといったサウスのラッパーたちが取り入れたビートのサウンドがトラップと呼ばれるようになります。

レックス・ルーガーやゼイトーベン、メトロブーミン、ヤング・チョップなどのプロデューサーの活躍によって、トラップは全米的に主流なサウンドとなり、ヒップホップといえばトラップといっても過言ではない状況になりました。

ドラッグ使用の流行とエモラップ

また、カニエ・ウェストやキッド・カディといった人気ラッパーたちが内面的な憂鬱を歌ってヒットしたことから、1990年代から主流だったギャングスタラップ以外にも、内省的な内容をラップするアーティストも登場するようになりました。

同時に、アメリカでは社会的にオピオイドリーンといったドラッグが流行するようになったため、ドラッグの使用や心の中の憂鬱や混乱を歌うエモラップと呼ばれるジャンルが誕生しました。

ドラッグのオーバードーズによって才能あるラッパーたちが次々と亡くなるようになったのも2010年代後半からのヒップホップの特徴だといえるでしょう。

ヒップホップの歴史が学べるおすすめ本3選

『ヒップホップ家系図』

『文系のためのヒップホップ入門』シリーズ

『ラップ・イヤー・ブック』

ヒップホップの歴史が学べるおすすめの映画

『ヒップホップ・エボリューション』

ヒップホップ・エボリューションはネットフリックス製作のドキュメンタリーです。

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ヒップホップの教科書

ヒップホップ(HIPHOP)の教科書

2021年4月6日

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