高橋是清の生い立ち
高橋是清(1854年 – 1936年)は、ペリーが来航した幕末期の1854年に生まれました。
幕府御用絵師であった川村庄右衛門が、自宅に奉公に来ていた16歳の侍女である北原きんに手を出したことで生を授かり、生後は仙台藩の足軽であった高橋家に養子に出されました。是清の義理の祖母にあたる喜代子から深い愛情を受けたほか、幼い頃から多くの幸運に恵まれたため、養子であったものの楽天的な人物に育ちます。
ペリー来航によって日本が開国した後、仙台藩は外国の最先端の知識を入手しようと考え、若い武士に英語を習わせた上で、外国に留学させることにしました。そこで白羽の矢がたったのが、当時11歳だった是清でした。是清は、横浜に住んでいたアメリカ人医師のヘボンが開いていたヘボン塾で英語を学び、13歳になるとアメリカのサンフランシスコに留学しました。しかし、留学中になんと是清は騙されて奴隷契約にサインしてしまい、オークランドで奴隷となってしまいます。
やがて、なんとか奴隷を脱して帰国した是清は、今の開成中学・高校の初代校長を務めたりしながら、文部省や農商務省の官僚としても精力的に働きます。たとえば、特許局の初代局長として日本の特許制度を整えるなどしました。その後、民間に転身した是清は、ペルーで銀鉱山を取得して経営しようとしますが、詐欺にあい、購入した銀鉱山は採掘済みのもぬけの殻でした。こうして是清は全財産を失い、アラサーのホームレスとなってしまいます。
商人として一から出直そうと考えた是清でしたが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行の本店建設の担当者となります。ここでも才能を発揮した是清は、日本銀行に本採用となると、みるみると出世していき、あっという間に副総裁にまで昇進します。副総裁を務めていた際には、日露戦争が発生。是清は、日本の戦費を調達するために、日本の国債を外国で販売することに成功し、戦争の勝利に必要不可欠であった資金の調達を成し遂げます。
こうした成果によって、貴族院議員や日銀総裁に任命されますが、1913年には政界に転身。立憲政友会の一員として、総理大臣一回(第二十代)に加えて、数多くの内閣で合計七回の大蔵大臣を務めます。1931年には、犬養剛内閣の大蔵大臣として、インフレ的な政策を展開し、昭和恐慌を列強の中でいち早く切り抜けることに成功。しかし、景気回復後に財政を引き締めようとしたことが、予算拡大を希望する軍部に疎まれ、1936年の二・二六事件によって暗殺されました。
高橋是清の功績
日露戦争時の資金調達
東郷平八郎が海軍の指揮官として日露戦争を勝利を導いた表の英雄だとすると、高橋是清は戦争に必要な資金の調達に成功させて日露戦争を勝利に導いた裏の英雄です。
1904年に日露戦争が始まると、日銀副総裁で英語も堪能であった是清は、国債の発行によって戦費を調達するための旅に出ます。必要資金は、国家予算の60年分に相当する金額でした。
まずは、アメリカでの国債発行を模索しましたが、売れる見込みが立たたないため、発行してくれる銀行が見つからずに断念。その後、ヨーロッパに向かった是清は、ロンドンにおいて、香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロンによる国債の発行に成功します。さらに、ニューヨークのユダヤ人でクーン・ローブ商会の会長であったジェイコブ・シフが、ユダヤ人を弾圧しているロシアに対する反感から、国債を大量に引き受けてくれたことで、是清は必要資金の調達に成功しました。当時、発行された国債の金利は7%で、日本の税関収益を担保としたものでした。
金融恐慌の対策
第一次世界大戦の最中に、戦場となった各国に様々な物資を輸出しまくったことで好景気を享受した日本は、1920年に入ると、その反動で戦後不況となっていました。また、1923年に関東大震災が発生したこともあり、多くの不良債権が存在する状態でした。
そんな中で、1927年に当時の大蔵大臣であった片岡直温が国会答弁の最中に野党に苛立ち「東京渡辺銀行がとうとう破綻した」と発言したため、東京渡部銀行への取り付け騒ぎが発生。他の銀行にも飛び火して、金融不安が発生しました。
三度目の大蔵大臣に就任した是清は、井上準之助に日銀総裁になるよう依頼。しばらくの間、支払猶予措置を執行すると、その間に大量の片面印刷紙幣を印刷して、井上準之助と協力して各銀行に山積みにさせるという方法で、取り付け騒ぎや金融不安を抑えることに成功しました。
昭和恐慌の対策
先ほどの井上準之助が大蔵大臣となった浜口内閣において、日本では金本位制に復帰することを目指して、復帰後も国際市場で競争力を維持できるよう、国内の物価や賃金を低く抑えるデフレ的な政策が行われました。
しかし、金本位制に復帰したタイミングは、まさに世界恐慌が発生していたタイミングで、もともと行われていたデフレ政策と世界恐慌の国内への波及によって、日本は昭和恐慌と呼ばれる不景気に陥ってしまいます。
その後、犬養剛内閣が誕生。四度目となる大蔵大臣に任命された高橋是清は、勉強していたケインズの理論に基づいて、金本位制をすぐさま離脱すると、それまで発行されていなかった赤字国債を発行。さらに、日本銀行に一時的に国債を引き受けさせるという荒技も駆使して、大規模な財政出動を行います。そうして市中に大量のお金を供給した結果、日本は列強の中でも、一足先に世界恐慌を脱した国となりました。
高橋是清のエピソード
幼少時の幸運なエピソード
高橋是清は、幼少時から幸運に恵まれていました。
たとえば、仙台藩の藩主の奥方が近くの神社に参拝した際に、当時3歳の是清がとことこと近寄ると、「おばさん、いいべべだ」と、藩主の奥方の着物に抱きつきました。足軽の子が、藩主の奥方に触れて、おばさん呼ばわりしたのですから、これはとんでもない無礼です。しかしその後、藩主の奥方に屋敷に呼び出された是清は、罰せられるどころか「可愛い子どもだ」と奥方からたくさんのご褒美をもらったのです。
また、大名行列を見物していて、通りの真ん中で当時5歳の是清が転んでしまったこともありました。その上を、先払いの武士たちが猛スピードで馬に乗って通り過ぎて行ったのですが、是清は奇跡的にも馬に踏みつけられることはなく、着物に馬の足の後がついただけでした。
高橋是清の名言
金融・財政に関する名言
一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ
今回の経済不況は人類の生活に必要なる物資の欠乏に基くものでないことは明かであつて、むしろ供給過剰のため物価が暴落し生産設備は大部分休止するといふところにあつた。換言すれば生産と消費との間に均衡を失したところにその原因があつたのである。ゆゑにその対策としては両者の均衡を得せしむることで、これは適正量の通貨供給に俟(ま)つ外はなかつたのである。先づ低金利政策をとることがその基礎的工作であつたのである
人生・仕事に関する名言
いかなる場合でも何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと常にそれに満足して一生懸命にやるなら衣食は足りるのだ。ところが多くの人はこんな仕事ではだめだとかあんな仕事がほしいとかいっているからいよいよ困るような破目に落ちてゆくのである。
なあ、直。忘れるなよ。順境は、いつまでも続くものではない。だがな、逆境というのもまた心の持ちようひとつで、これを転じて、いくらでも順境にすることができる
仕事を本位とする以上は、その仕事がどんなであろうとも、いかに賤しく、いかに簡単であろうとも、ただ一心になって、それを努めるばかりである。こうすれば、どこにも不平の起こるべき原因がない。よい地位に昇ったからとて、われを忘れて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するはずもなければ、また、その地位が下がったからとて、失望落担することもないはずだ
不平を起こすぐらいならサラリーマンたる己れを廃業して独立するがよい。独立してやれば成敗いずれにせよ何事も自分の力量一杯であるから不平も起こらぬだろう。けれども、この独立ができないならば不平は言わないことだ
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