ラジオDJ、レーベル経営者、グラフィティライター!ヒップホップ初期に活躍した3人のアントレプレナー。

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ヒップホップといえばラッパーやDJといったアーティストに注目が集まりがちですが、『ヒップホップ家系図』という漫画を読むと、それ以外にもヒップホップを支えた人たちが存在したことが分かります。

その中でも、自ら新しい動きを生み出し、ヒップホップ文化の拡大に大きく影響した3人を紹介してみます。

 

Mr.Magic(ラッキー・ザ・マジシャン) – ヒップホップラジオ放送者

mr.magic

HIPHOPといえばラジオです。ラッパーの歌詞でも「ラジオで掛からない」、「これはHOT97(ラジオ番組)用だ」など、ラジオに言及がされることは多々あります。

そんなHIPHOPといえばラジオという状況を作り上げたのが、このMr.Magic(本名:ジョン・リバス)です。

1時間75ドルでラジオの放送枠が買える!

彼は23歳の頃、マンハッタンのミッドタウンにある電器屋でアルバイトをしていました。オーダーメイドのスピーカーを作る仕事です。そうして得た音響機材に関する知識でDJのアルバイトにも手を広げていました。

DJをしていく上で、MCの技術をもっと身に付けたいと考えたMr.Magicはニューヨークにあるアナウンスとスピーチの学校に入学します。そこで、彼は同級生から、WHBIというラジオ局の放送枠を1時間75ドルで買えるという話を耳にするのです。

ジョンはラジオ放送を始めるために、スポンサー集めを開始します。働いていた電器屋の店長、向かいの海鮮料理屋など、CMを流す代わりにお金を出してもらったのです。

有名なアーティストをゲスト出演させ、「ディスコ・ショーケース」はヒップホップに欠かせない番組に

そうして、彼は日曜日の深夜2時から4時にかけて、自分が司会を務める「ディスコ・ショーケース」という番組を開始します。

Mr.Magicはラジオ放送をするだけでなく、ヒップホップのアーティストを次々と出演させることを考えます。グランドマスター・フラッシュやカーティス・ブロウ等、人気のアーティストに出演してもらったことで「ディスコ・ショーケース」はますます人気を博します。

そして、「ディスコ・ショーケース」はヒップホップのアーティスト達が告知をするための、とても大切な番組へと成長していったのです。

 

シルビア・ロビンソン – 数々のヒットを飛ばしたレーベルオーナー

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シルビア・ロビンソンは、「シュガーヒル・レコード」というレーベルを作り、シュガーヒル・ギャングやグランドマスター・フラッシュの作品を世に送り出しました。

レーベル経営者のシルビア

シルビア・ロビンソンはもともと歌手であり、1956年にはMicky & Sylviaとして”Love is Strange”をヒットさせていました。

その後、67年にオール・プラチナム・レーベルを創設し、the momentsの”Love On A Two-Way Street”などをヒットさせていました。

この曲はジェイZの”Empire State of Mind”にサンプリングもされています。

シルビアとヒップホップとの出会い、シュガーヒル・レコードの設立

彼女はある誕生日にディスコでヒップホップのパーティーを体験します。彼女はそのとき初めてヒップホップに接しましたが、瞬時にこれが成功しそうだと考えました。

彼女は「シュガーヒル・レコード」を作り、すぐにラッパーを集めはじめます。

ピザ屋で仲間の作ったラップを口ずさんでいたことでシルビアの目に留まったビッグ・バンク・ハンク、ハンクを勧誘している車に近づいてきてチャンスを掴んだマスター・ジーとワンダー・マイクの3人が第一弾アーティストの「シュガーヒル・ギャング」として世に出ます。他番組ではなかなか流してもらえない中、先ほどのMr.Magicの「ディスコ・ショーケース」でプレイされたことで一気に火がついたのが”ラッパーズ・ディライト”です。

印税をきちんとアーティストに払うことで、人気アーティストの引き抜きに成功

シルビアには、レーベル経営者としての経験があったため、ヒップホップの人気が高まるにつれて出てきた他のレーベルと比べると、とてもきちんと運営されていました。例えばシルビアはアーティストに適切な印税を支払っていました。

この印税はアーティストにとって大きな魅力でした。ライバルのレーベルともいえる「エンジョイ・レコード」から、当時の人気アーティストである「ファンキー・フォー・プラス・ワン」や「グランドマスター・フラッシュ&ザ・ふゅーリアス・ファイブ」を引き抜くことにも成功し、「シュガーヒル・レコード」はますます大きくなっていくのです。

 

フレッド・ファブ・ファイブ – グラフィティを芸術の文脈に組み込んだ男

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グラフィティはポップアートだ!

当時のニューヨークでは、アンディ・ウォーホルやリキテンシュタインなどの描くポップアートが大流行していました。

自身もグラフィティ・ライターであったフレッドは、自分がカッコいいと思うグラフィティは、そうしたポップアートを取り入れていることに気付きます。

そして、ポップアートを取り入れた、イケてるグラフィティを見つけると、そのネームタグを頼りにグラフィティ・ライターを探し出し、卓越したグラフィティ・クルー「ファビュラス・ファイブ」を結成し、活動を展開します。

特に重要な作品となったのが、地下鉄に描いたキャンベル缶です。

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余談ですが、日本のオタクカルチャーを芸術として欧米に認めさせたポップアーティスト村上隆の『芸術起業論』という本では、西洋で大事なのは、いかに芸術の文脈に取り入れてもらうかというところに頭を働かせるかだと述べられています。

つまり、同じように芸術的な製作活動をしていても、西洋の芸術の文脈に認められて取り込まれれば本当の芸術になり、認められなければお遊びの制作活動に終わるというのです。

そういった意味では、フレッド・ファブ・ファイブの活動は、グラフィティをポップアートの文脈に組み込ませることで、単なる落書きから芸術へと昇華させたともいえると思います。

芸術界の真ん中へ

さて、地下鉄に描かれたキャンベル缶とそこにタグ付けされたFREDの名前は徐々に広がり始め、やがてビレッジ・ボイス誌の記事になります。

こうして芸術の文脈に認められたフレッドは、美術界とのコネクションを手に入れます。これまでは無料で壁に落書きしていたものが、1枚1000ドルで売れる芸術作品になったのです。

フレッドはバスキアとも仲が良くなり、アンディ・ウォーホルの作った雑誌「インタビュー・マガジン」の編集者であるグレン・オブライエンともつるんで遊ぶようになります。

また、グレン・オブライエンの自主制作テレビ番組「TVパーティー」にもレギュラー出演するようになり、彼はさらに交流を広げていきます。その中にはバンド「ブロンディ」のクリスやデビーもいました。

フレッドはクロスやデビーをブロンクスのヒップホップの現場へと遊びに連れて行くようになります。

「ブロンディの曲の中で俺のことを歌って、俺をスターにしてくれよ」なんてフレッドの冗談もあり、ラップを取り入れ、フレディのことも歌った”Rapture”が生まれたのです。

この曲のPVにはフレッド自身やバスキアも登場しています。

 

ヒップホップ家系図には他にもたくさんの人物が!

この3人はヒップホップ家系図を読んでいておもしろいなと思った3人なのですが、他にもグランドマスター・フラッシュやアフリカン・バンバータ等のDJ、カーティス・ブロウ等のラッパー、ラッセル・シモンズ等の経営者が登場します。また、どのようにヒップホップがお金になるものになっていったのか、広がっていったのかが分かり、とてもおもしろいです。

ぜひ読んでみてください。

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