『ヘルタースケルター』:蜷川実花の”美の追求”への意地が詰まった作品だった!

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※このレビューはネタバレを含みます。

原作と正反対を描いた蜷川実花がおもしろい

美の追求を力強く肯定する

まず監督の蜷川実花について少し触れておこうと思います。

蜷川実花はAKB48の『ヘビーローテーション』のPVや、数多くの芸能人の写真集なんかも手掛けている訳ですが、わりとビビッドカラーの、色濃い、こってりな世界観を得意とするクリエイターなんですね。

その蜷川実花自身が映画で伝えたかったことをインタビューで語っているのですが、

やっぱりね、「もっと美しくなりたい」、「もっと自分をよくしたい」って思うことがまず美しいと思ってます。そう思うことで結局、みんなもがく、そこが美しいし、わたしはそこに肯定的です。「女性に生まれたからには女性を楽しめるくらいのタフさがあった方がいいな」って思っていて、そうありたいなって思ってるんです

この映画では一貫して”美の追求”のようなものが肯定されます。

このストーリーは、「定期的にメンテナンスをしないと体中に痣が出来はじめる」っていう後遺症を伴う、究極の整形手術を施す医者(せんせい)を軸として物語が展開します。その整形手術のお客さんたちは身を削って、大金を叩いて、整形手術をして、体がズタズタになっていくんですね。そんな中、リリコ(沢尻エリカ)は全身整形をそこで施され、芸能人として大成功し、定期的にメンテナンスを受けながら活躍するわけです。

原作だと、リリコと違って、そのメンテナンスを受け続けることが出来なくなって、体がボロボロになった人たちが数人出てきて、”どうしようもなく美を追求してしまった結果、ボロボロになった女性”というものが、淡々と描かれるんですね。リリコ自身も、最後には体中が痣だらけの描写が原作にはあります。

たとえば、リリコの彼氏の南部という男がいるんですけど、その南部が婚約した政治家の娘である田辺恵美利も、嫉妬したリリコの指示によって、リリコのマネージャーから顔に硫酸をかけられた後、同じ医者(せんせい)から整形治療を受けることになります。田辺は原作では、最終的にリリコの全身整形スキャンダルでせんせいの病院が閉鎖してしまったために、メンテナンス治療を受け続けられなくなって、体が痣だらけでボロボロになっているところが描かれているわけですが、せんせいの顧客は数百人いる設定ですから、このシーンは美を求めた結果、全てを失った女性数百人を象徴するシーンなわけです。

僕は保育園の頃に、子ども向けビデオみたいなので見て、物凄く悲しくて空虚な気持ちになった童話があるんですけれど、それがイソップ童話の『欲張りな犬』なんですね。これは、とある肉を咥えた犬が、水面に映った自分を見て、もう一匹肉を咥えた犬がいると思いこむところから話が展開して、そのもう一匹の犬(水面に映った自分)からも肉を奪ってやろうと考えた犬本人が、水面の自分に向かって吠えるんですね。それで肉が水面に落ちてしまって、何も無くなるという、強欲をいましめるようなお話なんですけど、当時、僕は「バカな犬だなー」と笑うことが出来なくて、自分自身の人間の本能的な部分とリンクする行動を見てしまったからこそ、”避けることの出来ない破滅”のようなものを垣間見て、とても悲しい気持ちになったんだと思うんですね。

『ヘルタースケルター』の原作における”美の追求”は、基本的にこの構造になっている訳です。多くの女性が本能的に美を求めて、せんせいの施術を受け、最終的に体がボロボロになり、美を追求する権利すら奪われてしまう。そんな中で、すべてを認識した上で、出来るだけ早くそこから脱出しようとしながらも機会を逃し、自分はこれを続けるしかないと穴に深く深く落ちていく主人公リリコの葛藤が描かれるわけです。

メンテナンスで美しさを保つためには、芸能人として成功し続けてお金を稼ぐ必要があり、そのためにはメンテナンスを受け続ける必要があるというカルマの中で、みんなに忘れられて捨てられてしまうというエンディングがいつか来ることだけは分かっている訳ですから、破綻に向けて突き進んでいく自転車操業のような絶望感がそこにはあるわけです。日本の第二次世界大戦の歴史なんかにも、ブレーキを踏むことが出来ない車に乗って、破滅に向かって突き進んでいくような絶望感があると思うんですけれど、まさにその手の悲哀というか、破滅の絶望感のようなものが描かれてるんですね。

そういう原作を引っ張り出してきて、

「もっと美しくなりたい」、「もっと自分をよくしたい」って思うことがまず美しいと思ってます。

という、その”破滅への第一歩”を肯定する価値観をもろにぶつけるわけですから、蜷川実花本人は原作愛が強くて映画化したと語っていますが、もうこれは真正面から原作に挑んで、正反対を描きにいった作品なんです。一言でいえば台無しということなのかもしれませんが、クリエイターが躍起になって意地を張っている作品っていうのは個人的には好きです。

こういう破滅への道だろうが何だろうか、自分で選んで強く歩んでいくカッコよさって、アートやクリエイティブの世界ならではの価値観だと思うんですけど、そういう意味で蜷川実花の意地を感じる映画でした。そして、その一般人からすると無理を感じるような肯定に映像で説得力を持たせる沢尻エリカの飛び抜けた美貌と演技が、ただただ凄いなぁと。

沢尻エリカとシンクロする主人公なんて話もありましたけど違いましたね。もう、よくここまで、この世界観を演じ切れたな、沢尻エリカ流石だなという、そういう感じでした。

リリコを一貫して美しく描く

その対比が如実に表れているのが、リリコをどう描くかといく部分だと思うんですね。

映画でのリリコは一貫して美しく描かれる訳です。整形手術の台の上でも、化粧や付けまつげをしていますし、葛藤するシーンでも貴族の豪邸のようなゴージャスな部屋で、完璧なメイクで綺麗な状態で、誰も私のことなんて分からないのよという描き方をされる訳です。

「鏡よ、鏡。世界で一番美しいのは誰?」というセリフもあるのですが、原作では、まだ前半の美しいときに「鏡よ鏡世界で一番美しいのは誰?なんちってね」ってふざけて言うんですね。一般人側の価値観をしてるわけです。これが映画だと、もう後半のほうで「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」と泣き叫ぶように言って、そこで髪がごそっと抜けて大泣きするという、もう壮絶な美のカリスマな描かれ方をするわけです。

リリコの事務所の後輩に吉川(水原希子)っていうのがいるんですけれど、こちらは全身整形のリリコに対して、ナチュラルビューティーなんですね。これが原作だと完全に吉川とリリコの間には線引きがされていて、要は単なる世代交代ではなく、吉川は世の中の勝者だと。この生まれつきの敗者と勝者という対比はあまり映画では強調されなくて、むしろ世代交代、リリコの時代が終わっていく様子として描かれるわけです。

また、リリコの近くにはマネージャーのミチコ(寺島しのぶ)がいるわけですが、この描き方も違って、原作ではピアスとかしてて、ちょっとオシャレなんですね。それが映画ではリリコとの対比で、すっぴんでとにかく美を追求することすらできない弱い人間のように描かれる訳です。

要は、映画ではリリコは常に美しくて肯定的に描かれる訳です。”美”と”美で無いもの”の境目は、常にリリコの外部にあるんですね。リリコとマネージャーのミチコの間だったり、リリコと昔のリリコの写真の間であったり、リリコと妹の間であったりするわけですけれども。原作ではリリコの内部に”美”と”美で無いもの”が同時に存在しているので、やはり蜷川実花の”美の追求の肯定”のために、”美で無いもの”がリリコの内部からはゴッソリ取り除かれてるんですね。

もう、そうなってくると映画版の『ヘルタースケルター』は、ひたすらに”美の追求”を徹底して肯定して描こうとする蜷川実花の大挑戦な訳です。そういう見方が、この映画の醍醐味なんじゃないかなと思いながら僕は見ていたのですが、リリコが美しいうちは美しく描けば問題ないわけですから、リリコをどう殺すかっていう部分で、要はいかに美しく肯定的に殺すことが出来るかが勝負になってくると思うんですけれども、もうここが蜷川実花の技ありっていうか、そういうものを描かせたら本当に強いなっていうのを感じましたね。

ドラッグで発狂するシーンでも、厳格でオオムラサキのような美しい蝶が見えるわけですよ。音楽のプロモーションビデオのような世界が描かれる訳です。ゲロを吐くシーンだって、原作では乱雑な独り暮らしの部屋のトイレでゲーゲー吐くんですが、もうゴージャスな金色の施された長い大回廊のような廊下の先にある、きれいすぎるトイレで美しく嘔吐するんですね。

死に様に関しても、原作では記者会見で拳銃で自殺することで自分を焼きつけようと考えるリリコが、直前に楽屋で、その程度ではちょっと時間が経てば忘れられてしまうと考え、葛藤の末に、最後に目玉をくりぬいて楽屋に置いたまま失踪するんですね。最後の最後に、自分の美貌やスター性を信頼したカメラの前での芸術的・パフォーマンス的な死よりも、何も無い人間が何とか名前を残そうと考えたときに気が狂って取りそうな行動というか、泥臭くて、奇妙で気持ち悪い死に方(実際に死にはしないんですが)を選んだのが原作だとしたら、カメラの前での芸術的・パフォーマンス的な死に方をまさに全うしたのが映画版のリリコなんですね。このシーンはもう是非、映像で見て頂きたいなと。

大学2年くらいのときに、何かの授業で見たレディ・ガガのインタビュー映像で、レディ・ガガが「人々はスターの死を見たがってるのよ、だから私は自分の死をパフォーマンスで見せるの」というようなことを言っていたのですが、まさにこの”スターの死”の世界なんですよね。普通スターはスターのまま死なないですから。借金にまみれて一般人のレベルまで落ちた後にホテルの部屋とかで死んでるのが発見されたりするのがスターの儚さを際立たせるんですけれども、スターのまま死なせることで、スターというものを蜷川実花は一般人のレベルから切り離したかったんじゃないかなと思うわけです。それもただのスターではなくて、自分の意志で全身整形をしてスターを掴み取る、映画ではそれが”強さ”だと語られているんですが、その強さを持って、美しくありたいという欲求に向かって突き進んだリリコとして映画では描かれている訳ですから、それをスターのまま殺すというのは強烈な肯定であり、蜷川実花なりのスターの葬儀なわけです。

それで最後の最後にリリコがアメリカのショーパブみたいなところで活動している様子が描かれるんですが、漫画では連載終了後に、次作の可能性を残しておくために付け加えられたようなシーンだと思うんですね。これも映画では最後の見せ場のように描かれる訳です。もうメンテナンス治療も受けてないはずなのに美しすぎるリリコが最後にこれ見よがしに映されて幕を閉じるわけですね。文字通り、しっちゃかめっちゃか、”ヘルタースケルター”な訳です。大体原作の失踪設定を破棄した時点で、普通このエンディングはおかしい訳ですからね笑。

そういう意味でも、最後の最後まで、なんというか蜷川実花の意地を感じさせる作品でしたね。

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