
「カブトプスになりたい」。
僕が七夕の夜に短冊に書いてきた様々な夢や願望といったものの中で(といっても、ここ十年ほど書いていないのですが)、唯一覚えているものです。
今となっては七夕の短冊というものがお遊びで良かったとつくづく思うのだけれど、ー指もない気持ち悪いポケモンになってしまったら、こうしてMac Book Airのキーボードを満足気に叩くことも出来ないのだからー、当時まだ4歳ほどの僕は、本気でカブトプスになりたかったに違いないのです。
「あまりに馬鹿げているから、今でも覚えているんだよ」。
精神科医の先生なら、或いはこう言うかもしれません。
でも、僕は先生の言うことは違うと知っている。
当時の僕は少なくとも本気でカブトプスに憧れていたのです。
理不尽で馬鹿げていて、美しく、力の源になる。憧れとはそういうものなのだと。
憧れはふいに、強烈に
憧れというのはふいに、強烈にやってきます。
ある人にとってはKanye Westの『Late Registration』かもしれないし、ある人にとっては藤田晋氏の『渋谷で働く社長の告白』かもしれない。ある人にとってはイチローの盗塁かもしれない。そして、ある人にとってはデイヴィッド・ギャレット扮するパガニーニの暴力的なまでに才能が溢れる演奏かもしれない。
この映画はとあるタイミングで出会ってしまうと、一人の人間をヴァイオリニストの道に進ませてしまうかもしれない、それ程の力を持っているのです。
何がそこまでこの映画に、そしてパガニーニに力を与えているのかを少しばかり考えてみたいと思います。
圧倒的な才能はなにを持たらすのか
凡才が罪に思えてしまうとき
この作品には数人のリアル・ディールたち(つまり一流の本物たち)と、多くの凡才が登場します。
そして、その凡才を代表するのがワトソン家です。

今回の映画をみてワトソン家に好意を抱く人は、おそらくほとんどいないと僕は思います。
パガニーニの招聘失敗を繰り返し家財を差し押さえられるワトソン家、娘をメイド役にして表面を保とうとするワトソン家、とにかくパガニーニの一挙手一投足に振り回され、挙げ句の果てにはパガニーニとのスキャンダルが名前を売るチャンスになる等と言ってアメリカに渡るワトソン家。
ワトソン家の人々はとにかく全編にわたって凡才ぶりを惜しげなく披露してくれます。そして、そのワトソン家が凡才ぶりは、2ちゃんねる創業者のひろゆき氏の言葉を思い出させるのです。
結局さ、その見て欲しいやつってのはおっきい文字とか、水色とかオレンジとか、色変えたりとかいるわけじゃん。「見て欲しい」っていう時点でやっぱおかしいんだよね。その面白い文章っていうのを同じレベルで書いてたら、面白い文章がそのまま取られるわけじゃん。
でも自分から面白くないからなんか色を変えたりとか、サイズを大きくしたりとか、特殊なところでこう無理やり目立とうとするわけじゃん。それやっぱりそもそも面白くないから、色だったりサイズだったりっていう別のもので補完しようとしてるのね。その才能を補完しようっていう気持ちは分かるんだけどさ、でもやっぱり面白くないやつが何やっても面白くないのよ。それだったら金払っとけっていう。
だってその人がお金払えば、他のなんか面白い生放送の人とかに帯域が広くなったりとか枠が広がったりとか、面白い人が幸せになるでしょ? 面白くない奴は別に無理しなくていいから、とりあえず金だけ上納しておけっていう話ですよ。すみません。いや~なんだろうな。でもまぁ上納って言い方は良くないとはみんなに言われるとは思うんだけど。
基本的にやっぱりそのなんだろうな、自分の必要だと思うものにお金を払うわけじゃん。米食いたいから米を買うとかさ。浜崎あゆみが好きで、浜崎あゆみにずっと曲出して欲しいから浜崎あゆみのCDを買うとか、やっぱ何か自分が欲しい物に対してお金を払うと思うんだよね。で、払ってそのお金が相手の人に行けば、その相手の人は同じようなものを作ったらやっぱりお金くれるんだっていうので、似たようなものを作り続けるわけじゃん。そうすると幸せになれるわけじゃん? 作ってる人もそうだし、それを手に入れる人もそうなわけじゃん。
ワトソン家の人たちは、ここでいう「面白くない奴」。
その他にも婦人風紀向上委員会といったような、とことん面白くない集団も出てきます。
そして面白くない奴らが出てくれば出てくるほど、リアル・ディールたち、つまり本物の才能たちが輝きを増すのです。
現実世界では、リアル・ディールが本当に理想的に輝くことは多くありません。
けれども、映画の中では、彼らは遠慮なく輝きます。暴力的なほどに。
3人のリアル・ディール
一人目のリアル・ディールは間違いなくパガニーニです。

彼の演奏はあらゆる人間に熱狂と感動をもたらします。映画を大音響で見てもらえればその凄まじさは嫌でも分かるかなぁと。この映画の世界に入っていくとき、僕たちは何一つの負い目なくパガニーニに憧れることができるのです。
二人目のリアル・ディールはパガニーニのプロデューサーを務めるウルバーニ。

映画におけるウルバーニの役割は極めて明確です。パガニーニという音楽の才能を持つ男が、音楽の才能だけですべてを手に入れられるようにすること。彼はそれに徹します。
劇場で見世物小屋のような演奏をしているパガニーニを大きな世界に連れ出し、監獄でバイオリンを弾き続けた等のストーリーを作り上げてパガニーニをあっという間に伝説化することに成功。(「演者にとって一番難しいのは名前を売ることだ。スキャンダルはチャンスでもある。」なんてつまらないことを言っているワトソン家とウルバーニの圧倒的な力の差がここにも見て取れるでしょう)。ワトソン家からは金をむしりとり、とにかくウルバーニは手段を選ばずに、才能によって全てが正当化される世界、先ほどのひろゆき氏の言葉でいえば「面白くない奴は面白い奴に金を貢げ」という世界を作り上げていくのです。
この映画においてウルバーニは明らかに悪役だけれど、ウルバーニなしには、パガニーニの成功と呼ぶのもおこがましいほどの絶大な成功はあり得ない。悪魔に魂を売ったことでパガニーニはヨーロッパを支配したのです。
三人目は前二人と比較すると少し小粒だが、イギリスの女性記者です。(名前忘れた!)

彼女もまたワトソン家を振り回し、娼婦に扮してパガニーニが本当の才能を発揮した瞬間をいち早く捉え、取材をし、的確な目で記事を書きます。凡才がパガニーニと一緒にステージに上がった際には隠すことなく嫌悪感を示し、さくっと大スキャンダルを記事にする。
この映画の中ではパガニーニとウルバーニに振り回されないだけでもリアル・ディールなのです。
パガニーニに憧れて
ここまでリアル・ディールたちが、その化学反応も含めて存分に輝くとき、僕たちはそこに曇りひとつない憧れを抱くことが出来ます。5年後に『パガニーニ 愛と狂気のピアニスト』に憧れてヴァイオリン始めましたって子どもがたくさんいたって何ひとつとして不思議はないのです。
バンドもいいし、ダンスもいいけど、普通にヴァイオリンでしょって、そこらの中高生が言い始めても何一つおかしくない程の力がある映画だと思います。
そこまで思わせてくれる映画を作り上げてくれたことはホントに素晴らしい!!
ということで、とにかく最強の映画であり、ぜひ映画館で見てほしいなぁと思います。
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