記事の目次
はじめに
ウォーレン・バフェットが実際に行った投資事例の詳細について知りたい方へ。
この記事ではウォーレン・バフェットが1961年に行ったデンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーへの投資について解説しています。
この記事の内容
- バフェットがデンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーに投資を行った1961年の時代背景
- デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーの概要と当時の状況
- バフェットの投資判断と結果
また、以下のページではウォーレン・バフェットの他の投資についても詳しくまとめています。
時代背景:1961年
1961年当時のウォーレン・バフェットは、まだバークシャー・ハサウェイを保有しておらず、バフェット・パートナーシップ・リミテッド(BPL)という投資組合を運用していました。
1960年代の前半は、非常に米国経済の調子がよい時期でした。インフレ率も1%〜2%程度と低い位置で落ち着いており、その恩恵を受けて、NYダウの株価は1960年の600ドル程度から1965年の1000ドル弱まで大きく躍進しました。
1960年代前半の低インフレと好景気という構図は、最近でいうと2010年代後半のイメージが近いでしょう。1961年はまだ株価が上がる前でもあり、バフェットにとっても割安な銘柄を見つけやすかった時期だといえます。
なお、ウォーレン・バフェットがBLP出資者にデンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーに投資していることを明かしたのが1961年であり、実際に投資を行ったのはその数年前からでした。
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーとは
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーの事業概要
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーは、風車や対平原地帯の農業水利設備の開発・販売を行なっている企業でした。
昔の農場では、風車を用いて送水ポンプを動かしていたため、地下水を汲み上げて灌漑に使ったり、家畜に飲ませたりするためにも、風車は農家にとって必要不可欠な存在でした。デンプスター社は風車業界の中でも高い評判を得ており、リーディング・カンパニーでした。
しかし、1930年〜40年の大恐慌を経て、政府が景気刺激策を行うようになると、公共事業の一環として農地にも電力供給網が普及しました。1960年代には、風車と送水ポンプの代わりに電力ポンプが用いられるようになり、風車やその付属品をとりまく市場は縮小の一途をたどっていました。
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーのモート(堀)
上述の通り、風車業界においては一定のブランド力を確立していましたが、風車事業の縮小に伴い、新たに進出していた農業機器の分野においては、そのようなブランド力はありませんでした。モートがある企業とは言い難い状況であったといえます。
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーの当時の状況
事業状況
(1)風車市場の衰退
上で書いた通り、バフェットがデンプスター・ミルに投資していた1960年頃には、風車と送水ポンプの代わりに電力ポンプが用いられるようになり、風車やその付属品をとりまく市場は縮小の一途をたどっていました。
一方、風車や送水ポンプといった機器にはアフターサービスや予備部品の販売が伴うため、過去に販売した風車からも継続的な収益が上がっており、すぐに収益が激減するという状況ではありませんでした。バフェットのBLP出資者への手紙からは、収益の20%程度がこうした予備部品やアフターサービスによる収益であったと推測できます。
(2)農業機器分野での苦戦
風車市場の縮小を受けて、穀物の種まき機など、風車以外の農業機器分野にも進出していました。こうした業界は成長市場でしたが、この領域においてデンプスターは風車業界で確立していたようなブランド力はありませんでした。
財務状況
収益・利益(1959年)
- 売上:約7,160千ドル
- 営業利益:約400千ドル
- 純利益:約150千ドル
バランスシート(1959年)
- 資産:約5,400千ドル
- 負債:約1,000千ドル
- 純資産:約4,400千ドル
(1)収益・利益
デンプスター・ミル・マニュファクチャリング・カンパニーの売上は1959年時点で約7,160千ドルでした。
コスト構造としては、売上原価が5,450千ドル程度と大部分を占めており、販売管理費が1,310千ドル程度でした。あわせると6,760ドル程度であり、営業利益は400千ドル程度、営業利益率は5.5%程度とかなり低いことが分かります。なお、売上原価には減価償却費も含まれているため、キャッシュフローはもう少し良い状況であったことが想定されます(当時はキャッシュフロー計算書はありませんでした)。
今のバフェットであれば、このような利益率の企業に投資することはないでしょう。
(2)バランスシート
資産は5,400千ドル程度であり、自己資本が4,400千ドル程度でした。
資産の大きな部分を占めるのは、棚卸資産(在庫)と土地・建物などの不動産であり、それぞれ2,600千ドル程度を保有していました。あわせると、5,200千ドル程度で、資産のほぼ全てが在庫と不動産であったことが分かります。
(3)時価
当時の株価は20ドル程度で、発行済み株式数は約6万株であったため、時価は1,200千ドル(120万ドル)程度でした。
なお、株価は1955年に100ドルであったところから、1959年までに5分の1になっていました。
バフェットの投資判断
バランスシートの資産価値
デンプスター・ミルへの投資は、バフェットに言わせれば「シケモク投資」でした。
「シケモク投資」は、バフェットの師匠であるベンジャミン・グレアムの教えに沿った投資方法で、その会社が保有する純資産よりも時価総額が大幅に割安な場合に、その企業に投資して、本来の価値になったところで売り払うというものです。
会社の時価総額が純資産よりも大幅に割安だというのは、その企業の先行きが暗いということを示していますが、過剰に安くなっているところを拾って、適正価格までの差分を取ったら、さっさと売り払うため、企業の先行きを心配する必要はないというわけです。
シケモクとは、他人が吸って地面に捨てたタバコのことであり、それを拾い上げて、最後の一吸いをして捨てるのに似ていることから、バフェットはシケモク投資と呼んでいます。投資キャリアの初期において、バフェットが得意とした投資としたのはシケモク投資でした。
デンプスター・ミルの場合は、純資産が440万ドルに対して、時価総額が120万ドルだったので、帳簿上は300万ドルも安いということになります。バフェットは、在庫を40%の価値で評価するなど、保守的な計算をしても同社がずいぶんと安いことを報告しています。
あとは、この純資産のどの程度が実際に現金化が可能なのかがポイントとなります。バフェットは、在庫を処分しつつ新規投資を控え、さらには不採算店舗を閉じて不動産を換金していけば、資産の現金化を十分に進めていくことができると判断しました。
バフェットの投資実行と結果
プロ経営者のヘンリー・ボトルを送り込む
バフェットは、最終的にBPLの運用資金の20%をデンプスター・ミルに投資して、同社の株式の70%を取得します。
その後、プロ経営者のヘンリー・ボトルをCEOとして同社に送り込みました。ヘンリー・ボトルは、予備部品やアフターサービス部分の値上げによる売上拡大、不採算店舗の閉鎖とリストラ、在庫の現金化、新規投資の抑止など、なすべきこと粛々と行い、同社の資産をほぼバランスシートに記載されている価格100%で現金化していくことに成功しました。
現金化した資産を投資運用
現金化された資産は、バフェットが投資運用に回して増やしたため、最終的に同社の株価は80ドル程度まで回復し、バフェットは同社を売却して大きな利益を得ました。
バフェットの投資事例からの学び
デンプスター・ミルの投資事例は、サンボーン・マップ・カンパニーの事例と同じく、バフェットがバランスシート重視の「シケモク投資」を行なっていた時期の代表的な投資事例だといえます。
一方、巨大な投資ポートフォリオがあったサンボーン・マップ・カンパニーと比べると、デンプスター・ミルの資産は棚卸資産(在庫)や不動産が多く、現金化の難易度は高い状況でした。そのため、バフェットは自分で見つけた経営者であるヘンリー・ボトルを送り込むというPEファンドのような荒技を用いました。
結果的に、資産をほぼ簿価の100%で換金することに成功したバフェットですが、町ではバフェットのリストラに対する反対キャンペーンがはられるなど強い抵抗を受けました。こうした事態を目の当たりにしてショックを覚えたバフェットは、徐々にアクティビスト的な投資手法を止めるようになっていきます。
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