バフェットの投資事例:サンボーン・マップ・カンパニー(1958年)

ウォーレン・バフェットの投資

sponcered by







はじめに

ウォーレン・バフェットが実際に行った投資事例の詳細について知りたい方へ。

この記事ではウォーレン・バフェットが1958年に行ったサンボーン・マップ・カンパニーへの投資について解説しています。

この記事の内容

  • バフェットがサンボーン・マップ・カンパニーに投資を行った1958年の時代背景
  • サンボーン・マップ・カンパニーの概要と当時の状況
  • バフェットの投資判断と結果

また、以下のページではウォーレン・バフェットの他の投資についても詳しくまとめています。

ウォーレン・バフェットのすべて

ウォーレン・バフェット

2022年1月8日

時代背景:1958年

ウォーレン・バフェットは、コロンビア・ビジネス・スクールで名著『賢明な投資家』の著者であるベンジャミン・グレアムからバリュー投資を学んだあと、グレアム・ニューマン・コーポレーションで証券アナリストとして2年間を過ごしました。その後、1956年に友人や家族から資金を募ってバフェット・パートナーシップ・リミテッド(BPL)という投資組合を設立し、1969年までBPLで投資を行いました。

1950年代末のアメリカ経済は好調でした。1945年に第二次世界大戦、1950年に朝鮮戦争が終了した後、アメリカでは中間層が拡大し、そうした恩恵を受けた好景気は1960年代末まで続きました。1950年代を通じた株式(NYダウ)のリターンは平均して年率18%でした。

サンボーン・マップ・カンパニーとは

サンボーン・マップ・カンパニーの事業概要

当時のサンボーン・マップ・カンパニーは火災保険会社をメインターゲットとした地図制作会社でした。

もともとアメリカの火災保険会社は、火災保険の申し込みがあると、その都度、申し込みのあった建物のリスクを個別に調査して、リスクを査定し、保険料を算出していました。エトナ保険会社という保険会社にいたD・A・サンボーンという若手測量技師はここに非効率を見出します。

サンボーンは、あらかじめボストン市の建物を詳細に調査して全域の地図を作ってしまい、その地図をもとに特定のビルについての火災保険リスクを査定するという方法を取り始めます。この方法が正確で効率的にリスクを査定できることが証明されると、サンボーンは1860年代にサンボーン・マップ・カンパニーを起業しました。

都市全域の地図を制作すると、それを火災保険会社に販売しました。しかも、都市の建物は毎年少しづつ変化するため、毎年更新版を販売することができます。これは今でいうサブスクのようなビジネスモデルです。

サンボーンはボストン市だけでなく、各地の都市に測量技師を配置すると、1870年代には50の都市にについて詳細な火災保険用の地図を作成し、火災保険会社用の地図という業界のトップ企業となりました。

サンボーン・マップ・カンパニーのモート(堀)

ウォーレン・バフェットは事業を守るモート(堀)のある企業を好むことで知られています。

サンボーン・マップ・カンパニーのビジネスモデルは、あらかじめ都市全域の地図をつくるため、大きな初期投資が必要であり、これは新規参入を難しくしていました。

また、仮に新規参入があっても、ひとつの地域の地図販売という売上をサンボーン・マップ・カンパニーと分け合うことになるため、地図制作の初期投資を回収するのが困難になります。新規参入するにしても、サンボーン・マップ・カンパニーがまだ進出していない都市の地図を制作して販売する方が効率がよく、わざわざサンボーン・マップ・カンパニーと同じ都市の地図制作に参入するメリットは薄いといえます。

このように、サンボーン・マップ・カンパニーの事業はモートによって守られており、業績は安定していました。

サンボーン・マップ・カンパニーの当時の状況

事業状況

(1)地図事業の衰退

上述のように、確かなモートに守られて、安定した利益を生み出す事業を展開していたサンボーン・マップ・カンパニーですが、当時は徐々に利益が縮小していました

その理由は、火災保険業界に新たなリスク算定方法が普及したことにあります。それは、建物の建設費用などの財務情報を用いた計算によってリスクを算出する「カーディング」と呼ばれる方法でした。この方法では、建物の地図を必要としないため、地図の売上が減少していたのです。

こうした変化によって利益率は大幅に悪化。1950年から1958年にかけて、純利益が毎年10%程度のペースで減少していました。株価も1938年の110ドルから45ドルまで、60%近くも暴落していました。

(2)投資事業の開始

こうした事態を受けて、サンボーン・マップ・カンパニーは新たに投資事業を始めていました

サンボーン・マップ・カンパニーを100%子会社として保有するファースト・ペラム・コープという持株会社を立ち上げて、サンボーン・マップ・カンパニーが生み出した利益を投資にあてていました。

財務状況

収益・利益(1958年)

  • 売上:約70万ドル
  • 営業利益:約16万ドル
  • 純利益:約30万ドル

バランスシート(1958年)

  • 資産:約445万ドル
  • 負債:約15万ドル
  • 純資産:約430万ドル

(1)収益・利益

サンボーン・マップ・カンパニーは地図事業の営業費用が年間に54万ドルほど掛かっており、売上の減少に従って、本業である地図事業の営業利益が圧迫されていました。このことは、BPL出資者への手紙の中でも触れられています。

  • 地図事業の営業利益:1958年に16万ドル、1959年に13万ドル
  • 投資事業による営業外利益:1958年に24万ドル、1959年に23万ドル

結果、総利益は1958年に40万ドル、1959年に36万ドルとなっており、税引き後の純利益は1958年に30万ドル、1959年に28万ドルでした。

地図事業の営業利益を超える投資事業の営業外利益を上げ始めているものの、1950年には68万ドルの純利益を生み出していたことを考えると、衰退は明らかでした。

(2)バランスシート

1958年の時点で、445万ドル程度の資産を保有しており、その内訳は以下のようなものでした。

  • 170万ドルの流動資産
  • 15万ドルの固定資産
  • 260万ドルの投資事業ポートフォリオ(取得原価)

調達側は、430万ドル程度が株主資本で、15万ドル程度が負債でした。

(3)時価

当時の株価は45ドル程度で、発行済み株式数は10万5000株であったため、時価は473万ドル程度でした。

バフェットの投資判断

地図事業の再生余地

本業である地図事業の利益は10万ドル程度ですから、本業のPER47倍ということになります。これは決して安くはありません。

しかし、当時のバフェットは地図事業の再生が可能であると考えていました。BPL出資者への1961年の手紙の中で、サンボーンの経営陣は中核の地図事業を軽視しており、経営の改善余地は大きいとほのめかしています。また、売上は減っていても、膨大な地図を資産として保有しているため、火災保険以外の新たな販売先を見つければ、売上再拡大の可能性もあります。

バランスシートの投資事業ポートフォリオの時価

バランスシートには、投資事業のポートフォリオがすべて取得原価(株などを購入したときの価格)で260万ドルと記載されていましたが、その時価(値上がりした当時の価格)で計算すると730万ドルでした。

当時、バフェットが最も魅力的に感じたのは、この点だったことでしょう。投資事業のポートフォリオが時価換算で730万ドルあるのだとすれば、実際の資産は445万ドルではなく、875万ドルだということになります。負債の15万ドルを差し引いた純資産は860万ドルとなり、時価の473万ドルを大きく上回ります

バフェットの投資判断まとめ

バフェットは、この会社を「衰退している会社」として見ておらず、以下のような資産を持つ会社として見ていたのです。

  • 事業が縮小しているものの年間10万ドルの営業利益を出しており再生可能性もある地図事業
  • 時価の473万ドルを大きく上回る730万ドルの投資有価証券

バフェットの投資実行と結果

支配株主へ

バフェットは、地図事業の再生を阻んでいるのは保守的な取締役会であることに気づきます。経営陣は地図事業の問題点に気づいており、能力も高かったのですが、保守的な取締役会の意向に従っていました。

そこで、バフェットは一時はBPLの35%にも達する金額をサンボーン・マップ・カンパニーに投じて支配株主となると、投資事業と地図事業を2つの完全な別会社に分割し、取締役会が地図事業に関与できないようにしました。また、投資会社の方は投資ポートフォリオを売却して現金化すると自社株買いを通じて株主還元を進めました。

こうして企業の本来価値を実現することで、バフェットはリターンを得ました。

バフェットの投資事例からの学び

サンボーン・マップ・カンパニーへの投資のポイントが、企業の時価総額を大きく上回る投資ポートフォリオ価値にあったことを考えると、財務諸表の詳細まで、しっかりと検討することの重要性が感じられます(一方、現在は、市場価格のある投資有価証券は一般的に時価でバランスシートに記載されているので、ここまで分かりやすいアービトラージはないかと思います)。

また、本来の企業価値が実現されていない企業の支配株主になるまで買い進め、会社を分割してまで企業価値を実現したBPL時代のバフェットは、アクティビストに分類されるような投資家として活動していたことが分かります。

逆にいうと、このような本来の企業価値を実現するような投資手法は、企業の改革が必要不可欠であるため、一定の株式を取得して経営に関与するということができなければ難しい手法です。個人投資家のような少数株主には難易度が高く、バフェットの投資手法としては「長期に渡って競争力を維持するであろう企業を適切な価格で購入する」というコカ・コーラやアメリカン・エキスプレスへの投資で見られたスタイルの方が参考としやすいでしょう。

バフェット自身においても、運用金額が増えたり、デンプスター・ミルへの投資時にリストラを含む企業改革の実施によって町の住民に嫌われる経験をする中で、このようなアクティビスト寄りの投資は見られなくなっていきます。

ウォーレン・バフェットのトップに戻る

ウォーレン・バフェットのすべて

ウォーレン・バフェット

2022年1月8日

sponcered by







コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

ABOUTこの記事をかいた人

ラップをしています!アルバム『アウフヘーベン』、EP『Lost Tapes vol.1』、『Lost Tapes col.2』を発売中!