先日、上野の国立西洋美術館で開催されているホドラー展に行ってきました。
かなりおもしろくて、久々にカタログを買ってしまったほど。
さて、ホドラーはリズムを描いた画家なのですが、その生い立ちなども興味深かったので、紹介してみます。
ホドラーの初期の活動
元々はお土産用の写実画を描いていた!
そもそも、ホドラーが絵画を描くことになったきっかけは母の再婚相手である装飾画家のゴットリーブ・シューブバッハの工房を手伝うようになったことでした。(ホドラーは七歳で父親を亡くしています。)
その後、14歳でフェルディナント・ゾンマーという画家に弟子入りします。
フェルディナント・ゾンマーの工房では、ホドラーは観光客のお土産用の風景画を描いていました。その流れは、師であるゾンマーがトゥーン地方の風景画を描いてきて、ホドラーら弟子達がその手本を出来るだけ忠実に模写するというものでした。
工房では絵にアレンジを加えることも、絵への署名も禁止されていたため、やがてホドラーはゾンマーの元を離れます。
光の発見 -自然の中で風景を描く-
ゾンマーの工房にいた頃、上述したように、ホドラーは手本を室内で模写していました。
ゾンマーの元を抜けて、ジュネーヴに向かったホドラーは、続いてラート美術館で模写を始めます。そこで、ホドラーはジュネーヴ美術学校の教師であったバルテレミー・メンに見いだされ、彼に弟子入りすることになります。
バルテレミー・メンはバルビゾン派とも親しかったこともあり、ホドラーは室内での製作ではなく、自然の中で直に風景を描くことを覚えます。
バルビゾン派
それまでの聖書や神話など宗教的、歴史的な画題や理想化された風景を描く伝統的な風景画に対して、アトリエでの画面構成よりも野外での自然観察を重視し、それまで画題になり得なかったフランス国内の森や渓谷、田園風景などの自然風景を描く風潮が生まれた。
(wikipediaより)
メンは弟子達に、アトリエに籠るのではなく、可能な限り自然のなかに出て行き、伝統的な構図法に基づいた風景画を制作するように指導していました。
こうして、直に光を浴びながら自然を描くことで、ホドラーは「光」を知覚するようになります。
インターラーケンの朝
マロニエの木々
さらに、ホドラーはスペインに滞在した際に、地中海の強い日差しを受けて、絵画にますます光を取り込んでいくことになります。
リズムの絵画へ
レアリストとしてのホドラー
ジュネーヴに暮らし始めたホドラーは貧しさの中にいました。
その頃、レアリスム(リアリズム・現実主義)というものが浸透し始めていました。レアリスムは、卑俗な現実をそのまま描くことで、伝統的な美の在り方、価値基準を大きく揺さぶっていたのです。
1870年代後半のホドラーはそうした中で、農民や労働者の姿を美化することなく描くようになります。
象徴主義との出会い
1880年代半ばに、スイスの人気文学者であるルイ・デュショーサルと交流するようになったホドラーは、象徴主義文学に触れることになります。
その後、ホドラーは労働者や老人の姿を単に美化することなく描くのではなく、それ自体を何らかのイメージの象徴として描くようになります。苦悩や思索といった、人間の内面や心理を、人物の身振りを通して象徴として絵画に描き出そうとしたのです。
病み上がりの女
リズムの絵画が誕生!
そして、1900年頃を転機に、ホドラーは遂にリズムの絵画を誕生させます。
身振りで象徴を描こうとしてきたホドラーは、「感情」によって動かされる「身体」、または「身体」によって動かされる「感情」をつぶさに捉えて、そこに発生する「リズム」を描くようになったのです。
また、パラレリズム(平行主義)を唱えたホドラーは、類似しあう「身振り」を反復しつつ、左右相称に配置することで、キャンバスの上にリズム感そのものを生み出そうとします。
木を伐る人
オイリュトミー(良きリズム)
感情
昼
風景画もリズムで描く
ホドラーはアルプスの風景もリズムで描くようになります。
シャンベリーで見るダン・ブランシュ
シェーブルから見たレマン湖
以前の風景画と比べると、だいぶ変容しているのがご覧いただけます。
リズムの空間化 -壮大に描く-
リズムの躍動を描くホドラーの絵画は、壁画などの壮大なプロジェクトで、その力をより強く発揮します。
今回のホドラー展ではさすがに壁画を持ってくるということは出来ないので、実物は見られなかったのですが、壁画が紹介されていました。
中でも圧倒的な壮大さを誇るのが、”無限へのまなざし”です。
無限へのまなざし
ということで
とにかく多作で、いろんな影響を受けながら常に自分の絵画を変化させてきたホドラーは本当におもしろいなぁと。
始まったばかりで、まだしばらく上野で展覧会やってるので、興味持った方はぜひ!
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