村上隆って誰だ?と思う方も多いかもしれません。
村上隆は、欧米で評価されている日本人の芸術家です。
ヒップホップ界隈での彼の仕事を見ると、Kanye Westの『Graduation』のカバーアートのデザイン
そして、Pharrell Williamsの『It Girl』のPVのディレクションなんかを務めています。
そんな村上隆が芸術の価値の仕組み等について語ったのが『芸術起業論』です。
買ったまま読めていなかったのですが、先日、空いた時間を利用して、一気に読みました。
元々はXenRoNさんに教えてもらった本なのですが、めちゃくちゃ面白かったので、紹介したいと思います。
一作品、一億円を理解するには
欧米の芸術は知的なゲーム
村上隆は日本で評価されず、渡米した後、欧米の芸術のルールを学び、成功したアーティストです。
なので、この本では欧米の芸術環境と日本の芸術環境の違いが、とても分かりやすく解説されています。
この違いを理解しなければ、評価される芸術を作ることは難しいと村上隆は述べます。
日本とは違うのですが、僕も先日もタイに旅行に行って気付きました。
現地の出店やギフトショップではとても綺麗な作品がたくさんあります。
しかし、それらはどれだけ繊細で手の込んだ作品でも、ギフトショップのお土産程度の価値しかなく(数千円~数万円)、評価された芸術品とはなりえないのです。
その差はいったい何なのでしょう。
以下の部分にはその一端が垣間見えます。
欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖昧な「色がきれい……」的な感動は求められていません。
知的な「しかけ」や「ゲーム」を楽しむというのが、芸術に対する基本的な姿勢なのです。
欧米で芸術作品を制作する上での不文律は、「作品を通して世界芸術史での文脈を作ること」です。ぼくの作品に高値がつけられたのは、ぼくがこれまで作り上げた美術史における文脈が、アメリカ・ヨーロッパで浸透してきた証なのです。
マルセル・デュシャンが便器にサインをすると、どうして作品になったのでしょうか。
既成の便器の形は変わらないのに生まれた価値とは何なのでしょうか。
それが、「観念」や「概念」なのです。
これこそ価値の源泉でありブランドの本質であり、芸術作品の評価の理由にもなることなのです。
くりかえしますが、認められたのは、観念や概念の部分なのです。
西洋の芸術の世界で真の価値として評価されるものは「素材のよさ」でも「多大な努力」でもありません。
重要なのはストーリーを作り出すコミュニケーション
それでは、その観念や概念を認められて、芸術として評価を受けるためには、何が必要なのでしょうか。
それはストーリーを作り出すためのコミュニケーションです。
アメリカでは「この作品は価値がある」と値踏みするコンサルタントや、オークションハウス等も参加して、商品の物語を作りこんでいます。
芸術とはそもそも価値が分からないもので、だからこそ高価な値段が付く可能性があるものです。
高価な芸術を売るためには、クオリティが高いこと以上に、金銭を賭けるに足る物語がなければいけないのです。
村上隆がマンハッタンで開催した『リトルボーイ』展は、ニューヨーク美術館の開催するAICAで最優秀テーマ展覧会賞、日本の芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しています。
会期中には3万人の入場者があり、日本文化関連の展覧会では最高の入場者数だったといいます。
ニューヨーク・タイムズ紙はこの展覧会を「原爆や敗戦で揺さぶられた日本の歴史や文化を理解するすばらしい機会」と評しました。
この展覧会で、村上隆は日本のオタク文化やポップ文化を紹介したのですが、そこで村上隆は”核へのトラウマ”を原点とした一本の線でストーリーを描きます。
ここまでは、日本のかわいいフィギュアや人気のアニメを紹介します、というだけでは物語が足りないという前項の内容で理解ができます。
しかし、その物語を伝えるために必要な作業として、「五~六人の翻訳者で、五~十回の推敲を重ねて作り上げた展覧会の英語のカタログがあってこそのものだろうと思います。ちゃんと伝えたいことがあるのならば、そのぐらいの時間や手間を掛けなければなりません。」という内容を読むと、いかに作品を伝えるためのコミュニケーションが大切かを痛感しました。
何でもヒップホップに結びつけるのも恐縮ですが、思えば、ヒップホップでもストーリーが求められています。
ギャングが溢れ変えるコンプトンで善良に育ったKendrick Lamar、
黒人の血を引いており、苛酷な環境で育ったのに、見た目が白人なためヒップホップコミュニティーにもなかなか受け入れられないLogic。
故TupacやJay Z、Kanye Westなんかは常にストーリーに事欠かない存在です。
村上隆が批判する日本の芸術環境
そんな村上隆は日本の芸術環境を批判しています。
日本は一度『美術手帳』なんかに取り上げられ、美術大学の教師か美大予備校の講師になればアガリであり、そうした環境が永遠のモラトリアムのような、「エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語り合うだけで死んでいける腐った楽園」を生んでいると酷評しています。その楽園には「勤め人の美術大学教授」と「生活の心配のない学生」しかいないと村上隆は述べます。
商業に身も心も売って、ドラッグを媒介にパーティーを開き、スキャンダラスなテイストを演じ続けたアンディ・ウォーホル、
自分の耳を切り落として、作品にドラマを付加することで評価されたゴッホ、
そうした枝葉に注目することが出来ず、表面的な西洋の真似で終わってしまうのが、村上隆の目から見た、日本の戦後の芸術だったのです。
というわけで
「クオリティじゃ負けてないのに、なんであっちが評価されるんだ」なんて思うことが多い方は、この本を読むとスッと視界が広がるかもしれません。
どうぞ。
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