行こう行こうと思ったまま、終わってしまいそうだったので、一念発起して森ヒルズのティム・バートンの作品展を観に行ってきました。
圧倒的な作品量
まず驚かされるのは、その圧倒的な作品量です。
作品といっても、ティム・バートンは普段から場所を問わず、メモ帳に絵を描きまくってるんですね。
それらがごっそり展示されてるので、入った瞬間に数十の独特で滑稽なキャラクターたちが一気に目に入ってくるわけです。
普通は美術館の特別展示に行くと、ひとつひとつの作品をじっくりと味わい、解説を読みながら進んでいくと思うんですけど、もうひとつひとつの作品を味わってたら10時間あっても足りないぞというくらいの量が展示されています。
最近は、何に関しても、もっと量をこなさなきゃなと思っていたので、どんぴしゃで食らいました。
最高傑作と作品群
そもそも何で量をこなさなきゃいけないと思うようになったかというと、今年の夏に村上龍の『無趣味のすすめ』を読んで、めちゃくちゃ食らったのですね。
その中でも特に多作の重要性の部分は何度も読み返しました。
天才と呼ばれる人間がいる。その定義はまちまちのようだが、重要な条件として「作品群」を残すということがあるように思う。てんさいというか、後世に名前と影響力を残す芸術家はたいてい多作だし、また科学者などの仕事は「体系的・重層的」であることが多い。天才とほとんど同義語になっているモーツァルトの作品の多さは、音楽に定型があった時代ということを差し引いても想像を絶している。
最高傑作という言葉に関わる誤解があるように思える。自らの最高傑作を作るという強い意志を持って作品に向かう、みたいな行為がまことしやかに語られたりするが、そんなのは大嘘だ。表現者は、新しいモチーフを獲得して、それまで培った情報と知識と技術を総動員し、「結果的に」自らの限界に挑む。ただそれだけのことで、表現者本人には「最高傑作」などという概念はない。
最近は久石譲の本を読んでいるのですが、こちらも同じように作品を作り続ける大切さが書かれています。
優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。さらにいえば、プロとして一流か二流かの差も、力量を維持継続していけるか否かにかかっている。
今日は気分が乗らないから書けない、などと悠長なことをいって自分を甘やかすことはできない。気分が乗らなかろうが、調子がよくなかろうが、ノルマを達成するように進めていかなければこなしきれない。多少体調が悪くても、気分がすぐれなくてもペースは崩さないように努める。
こういうものを読んで、多作が大事だと頭の中では感じていたのですが、壁一面に所狭しと並ぶティム・バートンの絵を見ていると、こういうことか!とストンと腑に落ちた感じがしました。
ティム・バートンの作品性も楽しめる
今回は、自分の状況や普段考えていることもあり、とにかくそこが印象に強く残ったのですが、もちろん多作でしょ、凄いでしょ、という展示会ではないので、ティム・バートンの作品性や生い立ちも知ることが出来ます。
たとえばティムはカリフォルニアの退屈な郊外で育ったので、ファンタジー的なものを追い求め、子どもの頃から絵や映画に没入していったという紹介がなされています。また、郊外の退屈な町でも年に数度華やかになるのが祭日のときなのですね。だからティムにとってはハロウィーンやクリスマスなどのイベントが持つ意味合いが非常に大きいそうです。
アンディ・ウォーホルもペンシルバニア州の田舎育ちだったために、ニューヨークやハリウッドに憧れたのですね。アメリカの大衆アート界のスターは郊外から生まれてくるのかもしれません。
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