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2パック(2Pac)
2パック(トゥーパック、英:2Pac、本名:トゥパック・アマル・シャクール、 1971年6月16日 – 1996年9月13日)は、1990年代のアメリカ西海岸(ウェストコースト)を代表するラッパーです。歴史上、最も偉大なラッパーだと考えるヘッズも多いくらい尊敬されていてプロップスのあるMCです。
ニューヨークで生まれ、幼少期をブロンクスで過ごすと、1991年(20歳)からMCニューヨークという名前でラップを始めます。その後、2パックに改名すると『2Pacalypse Now』をリリースして全米64位を記録。さらに、1992年には映画『ジュース』に出演して、俳優としても注目を集めました。
光と影のあるラッパーで、テレビでも人気者になり、マドンナと秘密裏に交際するなど、初のセレブリティといえるラッパーであった一方で、数々の訴訟やストリートとの繋がりを抱え、銃撃事件にも巻き込まれました。
銃撃事件の際には、同じスタジオにノトーリアスB.I.G.とディディがいたことから、2人が自分を暗殺しようとしたのではないかと考えるようになります。ノトーリアスB.I.G.は、もともと交流がありアドバイスもする仲でしたが、この事件をきっかけに関係がこじれていきました。
さらに、レイプ疑惑で実刑判決を受けて9ヶ月の服役をしていたときに、西海岸を代表するレーベル = デス・ロウの代表であるシュグ・ナイトが保釈金を用立てて刑務所から解放する代わりに、2パックをデス・ロウに誘います。こうして、ドクター・ドレやスヌープドッグのいたデス・ロウに2パックが加わり、デス・ロウや西海岸のギャングスタラップは最盛期を迎えました。
しかし、メディアやシュグ・ナイトが世間の注目を集めるために、2パックとノトーリアスB.I.G.の対立や、2パック率いる西海岸とノトーリアスB.I.G.率いる東海岸の対立を煽ったことで、東西抗争と呼ばれる過激なビーフに発展します。
この時期のヒップホップはストリートやギャングとの距離があまりにも近く、東西抗争の中で、2パックが実際に何者かに暗殺されてしまうという悲しい結果に終わりました。その1年後、ノトーリアスB.I.G.も何者かに暗殺され、ひとつの時代が終わりを迎えました。ドクター・ドレはこうした状況に嫌気がさして、デス・ロウを離脱。自ら新しいレーベルであるアフターマス・エンターテインメントを作りました。
2パックは、過激なギャングスタラッパーでありながらも、女性の自尊心を高めるような曲を作ったりとコンシャスな側面も持ち合わせるリリシストでもあり、それらを高い次元で両立していたことから、多くのラッパーに尊敬され、影響を与えました。
たとえば、2010年代を代表するコンシャス・ヒップホップの担い手であるケンドリック・ラマーは、自身のメジャー2作目のアルバム『To Pimp A Butterfly』にて、クライマックスに2パックの未公開インタビュー音源を持ってくる構成にしています。
デス・ロウ時代以前の音源については、その権利の多くが母親からエミネムに託され、エミネムによって管理されています。
written by @raq_reezy
2パックの名曲・おすすめヒット曲
Hit ‘Em Up
東西抗争を代表する一曲。2パックが東海岸のラッパーたちに向けたディスソングです。
California Love feat. Dr. Dre
1990年代の西海岸ヒップホップを代表する一曲。西海岸独自の心地よいサウンド=Gファンクの生みの親であるドクター・ドレがプロデュースに加えて客演でも参加したカリフォルニア讃歌です。
Dear Mama
2パックが母親への感謝を歌ったエモーショナルな一曲。シングルマザーとして育ててくれたことや、ストリートでの活動で警官に捕まったときには怒ってくれたことなどが綴られています。母親はコカイン中毒であり、それを克服できなかったことから、2パックは喧嘩して17歳のときに家を出ています。しかし、後に母親からドラッグ中毒を克服した連絡があり、その喜びから書かれた曲です。
Hail Mary
Changes feat. Talent
Ghetto Gospel
I Get Around
2パックのおすすめライブ映像
The House of Blues
MTV Jams
2パックのアルバム・ディスコグラフィ
- 2Pacalypse Now(1991)
- Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z…(1993)
- Me Against the World(1995)
- All Eyez on Me(1996)
- The Don Killuminati: The 7 Day Theory(1996)
2パックの歌詞・和訳
- 準備中
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