記事の目次
はじめに
池泉庭園について詳しく知りたい方へ。
本記事では、以下のような内容を解説しています。
この記事の内容
- そもそも池泉庭園とは?
- 池泉庭園の特徴や構成要素は?
- 池泉庭園のさらに詳しい分類は?
- 日本の有名な池泉庭園は?
この記事を読んでいただければ、池泉庭園の基礎知識を網羅できますので、ぜひ最後までお読みください。
written by @raq_reezy
池泉庭園とは
池泉庭園の読み方は?
池泉庭園は「ちせんていえん」と読みます。
池泉庭園はどんな日本庭園?
池泉庭園とは、その文字通り、池を持つ日本庭園を指します。
日本では、古くから自然の中に神を見出す「自然信仰」があったため、神社の境内には「神池・神島」といって、海神を祀る池や島が作られてきました。こうした伝統が、大陸から伝わった仏教や庭造りの技術と融合していった結果、奈良時代や平安時代を経て、複雑な池泉庭園がつくられるようになりました。
平安時代には、池泉庭園の作り方を記した『作庭記』という日本最古の庭園書が生まれ、池泉庭園をつくる技術が地方にも伝わっていきました。
その後、室町時代に入って、枯山水などの「池がない庭園」が登場するまでの間、池泉庭園が日本庭園の主流でした。現在でも、多くの日本庭園は池泉庭園です。
池泉庭園の特徴と構成要素
池
池泉庭園に必ずあるものは池です。
池は、古くは神社の境内に設けられた神池・神島に由来する伝統でもあり、邸宅の南の庭につくることで涼をとるための機能でもありました。
池泉庭園の池は、飛鳥時代には方形に整形されていましたが、奈良時代や平安時代になると、自然に近い、複雑な曲線の水際がつくられるようになっていきました。
遣水・滝
池をつくるためには、川などから水を引いてくる必要があります。
そうして庭の中に設けられた人工的な小川を遣水といいます。遣水は庭の東側から引かれるのが一般的で、野原の小川の景観を再現するように造られました。平安時代には、お酒が入った器を遣水に流して、それが自分のところに流れてくるまでに歌を読む「曲水の宴」という遊びが盛んに行われました。
また、水を流す途中に高低差を設計して滝をつくる場合もあります。日本庭園においては、いかに自然風景を再現するかが重要視されてきたため、そのひとつとして滝は欠かせない存在となっていきました。
石組
池泉庭園には、さまざまな石組が登場します。
例えば、滝の周りには滝石組が組まれます。滝石組の組み方によって、滝の落ち方や見栄えが変わるため、前述の『作庭記』では、様々な滝石組が紹介されています。
また、滝石組の他にも、池泉庭園に多くみられる石組としては、池の中に「不老不死の仙人が住む蓬莱島」に見立てた巨石や中島を配置する神仙蓬莱石組があります。加えて、不老不死の薬を求めて仙人のもとへと向かう舟を表現した舟石が置かれることもあります。
橋
池があるということは、橋もあります。
平安時代には、池の中島と敷地を繋ぐために橋が架けられるのが一般的になりました。上の石組でも説明したように、池の中島は蓬莱山などを表しているので、橋はこの世と空想の世界やあの世との結界を象徴していました。
橋にも種類があり、平橋や反橋、石橋、土橋、呉橋などがあります。
池泉庭園の分類(1):池泉舟遊式庭園
池泉舟遊式庭園とは
平安時代につくられた池泉庭園の多くは池泉舟遊式庭園でした。これは池に舟を浮かべて、池の中を漕いでまわれるような池泉庭園を指します。舟は「舟着」と呼ばれる護岸に置かれました。
平安時代には、池に舟を浮かべて楽器を演奏する儀式なども行われていました。また、池泉舟遊式庭園の中には、舟に乗ったまま遣水から敷地外の河川に出られるものもあり、交通の用途も兼ねていました。
例えば、池泉舟遊式庭園の代表例である桂離宮(建造は江戸時代ですが)では、かつては離宮内の池から舟に乗ったまま桂川に出ることができ、丹後や有馬などの当時の観光地へと旅行に出かけることができました。
池泉舟遊式庭園の種類
寝殿造系庭園
平安貴族の住宅様式である寝殿造(しんでんづくり)の屋敷と一体となった池泉舟遊式庭園を「寝殿造系庭園」といいます。
寝殿造の邸宅では、現代でいうところの居間にあたる「寝殿」と呼ばれる建物を中心に、「対屋」と呼ばれるいくつもの個室が渡り廊下で繋がっていました。
また、寝殿造の邸宅は庭と一体となって造られていて、邸宅の南側には池が設けられました。平安時代当時の作庭書である『作庭記』には、屋敷の南に池(朱雀)、東に遣水(青龍)、西に門(白虎)、北に山(玄武)をつくるのが良いと記されていました。大型の寝殿造系庭園は、既存の池をベースに、その北側に寝殿造の邸宅をつくっていく形で建造されています。
これは風水的なものですが、同時に実用的な機能も兼ね備えていました。南に池をつくれば、蒸し暑い京都の夏に南風を涼しくできますし、北に山をつくれば、冬の冷たい北風が屋敷に入ってくるのを防げます。また、水源である鴨川は京都の東の方にありましたし、西に門を設けることで西日を遮ることもできました。
浄土式庭園
寝殿造系庭園をベースに、平安時代の中期から後期にかけて発展した池泉庭園が「浄土式庭園」です。
その背景には、平安時代の中期から後期にかけて「末法思想」が流行したことがあげられます。末法思想とは、仏滅から長い期間を経ることで、釈迦の正しい教え(正法)が失われて、この世が荒れ果ててしまうという考え方です。日本では、1052年から末法の時代に入るとされていました。
実際、939年には平将門の乱や藤原純友の乱が起こるなど、地方では武士が台頭して、朝廷に衝撃を与えました。また、1028年には平安時代の摂関政治全盛期を演出した藤原道長が亡くなりました。末法の時代が始まるとされる1052年に向けて、変化・不安の時代を迎えていたのです。
こうした中で、人々は荒れていく現世ではなく、来世の極楽浄土に思いを馳せるようになります。そして、極楽往生のためには「観想」といって、極楽浄土を鮮明に脳裏にイメージできることが大切だとされました。しかし、優雅な時代を生きてきた当時の貴族の多くは、こうした瞑想のような修行に耐えることができずに挫折。それなら、そもそも極楽浄土の景色を作ってしまい、毎日のように実物を見ればよいと考えるようになります。こうして誕生したのが「浄土式庭園」でした。
藤原頼通がつくった平等院庭園は、あの世を描いた「当麻曼荼羅」を参考にして、極楽浄土を再現してつくられました。実際に、当麻曼荼羅の中心には平等院鳳凰堂そっくりの建物が描かれています。このように「浄土式庭園をつくる」という発想はどんどん広がっていき、各地に続々と浄土式庭園がつくられていきました。
浄土式庭園において、池の西側は彼岸、東側は此岸と呼ばれるようになり、西側の彼岸には阿弥陀堂が建てられました。これは太陽が此岸である東側から昇り、彼岸である西側に沈むからです。先祖の成仏を願って、此岸から彼岸の阿弥陀堂に向かって祈ることが行われました。
池泉舟遊式庭園の例
桂離宮(京都)
江戸時代に八条宮家初代の智仁親王によって、八条宮の別邸として建造されました。約58,000平方メートルの大きな庭園は、池泉舟遊式庭園でありながら、日本最古の池泉回遊式庭園であるともされています。
作庭は、江戸時代を代表する作庭家の小堀遠州だという伝承もありますが、実際には別の人物がつくったものと考えられています。当時は遣水から舟に乗ったまま桂川に出ることが出来ました。
神苑寺(京都)
神苑寺は、大きく改造されていますが、代表的な寝殿造系庭園の遺構のひとつです。平安京に遷都するにあたって、天皇のための庭園(禁苑)としてつくられ、天皇がいた大内裏の南東に隣接していました。桓武天皇も詩宴・舟遊びをしています。
太古から存在した大池を中心に造られており、池の北方には乾臨閣や釣殿・滝殿などの建物がありました。
大覚寺嵯峨院跡(京都)
嵯峨天皇の別荘としてつくられた嵯峨院を改造したものが大覚寺です。こちらも大幅な改造によって寝殿造系庭園ではなくなっています。
広大な大沢池を中心に作られており、当時は池の北側に設けられた滝殿庭園内にあった名古曽の滝の跡などを見ることができます。
平等院(京都)
京都の宇治に建てられた平等院は、藤原頼通がつくった日本最古の浄土式庭園です。当麻曼荼羅を再現するように絵に忠実につくられました。平等院の影響で、各地に浄土式庭園がつくられるようになりました。
毛越寺(岩手)
毛越寺の浄土式庭園は、平安時代末期に岩手県の平泉を中心に栄えた奥州藤原氏が『作庭記』を参考につくったとされています。当時の庭園が、ほぼ完全な状態で残っています。建物については、40以上の堂塔からなる壮大な伽藍がありましたが、鎌倉時代から室町時代にかけて焼失しました。現在も遺構が残っています。
池泉庭園の分類(2):池泉鑑賞式庭園
池泉鑑賞式庭園とは
池泉鑑賞式庭園とは、部屋から眺めて鑑賞する小規模な池泉庭園を指します。
鎌倉時代や室町時代には武士中心の社会が訪れましたが、彼らは平安貴族文化への憧れから日本庭園をつくりました。広大な池を中心とした壮大な池泉舟遊式庭園をつくるほどの力を持っていない場合には、比較的小規模な池泉鑑賞式庭園がつくられました。
室町時代には、応仁の乱が起こりましたが、その後の京都では大きな力を持つ者はなくなり、小規模な池泉鑑賞式庭園が増えていきました。
池泉鑑賞式庭園の例
恵林寺庭園(山梨)
鎌倉時代から室町時代初期にかけて活躍した禅僧で作庭家の夢窓疎石がつくりました。戦国時代には武田信玄ゆかりの寺院にもなった、関東・甲信越地方を代表する日本庭園のひとつです。部屋から眺めるほか、池の周りを歩いて回ることもできます。
金剛輪寺明壽院庭園(滋賀)
金剛輪寺自体の開山は聖武天皇の時代にまで遡りますが、池泉鑑賞式庭園は桃山時代から江戸時代にかけてつくられました。桃山時代・江戸時代初期・江戸時代中期と、それぞれの時代につくられた3つの池泉鑑賞式庭園が連なっていて、見比べることができます。
清水寺本坊庭園(福岡)
日本の室町時代に水墨画でも活躍した雪舟がつくったとされる福岡の池泉鑑賞式庭園です。
池泉庭園の分類(3):池泉鑑賞式庭園
池泉回遊式庭園とは
池泉回遊式庭園とは、池の周りをぐるりと歩いてまわれる散策式の池泉庭園を指します。
平安時代の浄土式庭園の頃から、池の周りを歩ける池泉回遊式庭園は登場していましたが、池泉回遊式庭園が最盛期を迎えたのは江戸時代でしょう。大名庭園など江戸時代以降の池泉回遊式庭園は、桃山時代に登場した「露地」の影響を受けており、単に池の周りを歩いて回るだけでなく、その道中にさまざまな見所を設けているものが多いです。
池泉回遊式庭園の種類
大名庭園
大名庭園とは、江戸時代に大名たちがつくった日本庭園です。江戸時代には、勝手な城の改築などは禁じられていたため、大名たちは大規模な日本庭園をつくるようになりました。
力のある大名がつくった庭園はかなり大規模なものもあり、しっかり見て回ると一時間以上を要することもあります。池の周りをめぐる道中には、茶室や橋、滝、石組、梅林などに加えて、日本や中国の各地の景色を再現するなど、様々な工夫が凝らされました。
こうしたスポットが庭の道中に設けられた背景には、桃山時代に千利休らの影響で登場した露地(茶庭)の影響があります。露地は、語源の「路地」が示す通り、元々は邸宅と茶室の間のちょっとした道中に設けられた庭でした。しかし、千利休は茶道をお茶を飲むだけではなく、その前後も含めた一連の体験として再構築する過程で、茶室への道にも役割を持たせるようになりました。現実世界から深山幽谷の世界に赴いてお茶を飲むという体験を演出するために、露地には山への入り口を連想させる飛石や敷石、または非現実への入り口を連想させる石燈籠や中門などが置かれたのです。
桃山時代には大名の間で茶道が大流行したため、大名庭園も露地の影響を受けました。
池泉回遊式庭園の例
小石川後楽園(東京)
小石川後楽園は、東京にある大名庭園で、徳川頼房によって作庭がはじめられ、後継で水戸黄門として知られる徳川光圀によって完成しました。明から招聘されて水戸学にも影響を与えた朱舜水も参加しています。
神田上水を引き入れた大泉水を中心に、海・川・山・林・田園とさまざまな風景に加えて、清水の舞台や嵐山など京都の景観、さらには中国の景観まで、さまざまな見どころが庭園の各所に散りばめられています。また、敷地の奥にある中庭には蓮池があり浄土を連想させる景観が広がっています。
兼六園(石川)
兼六園は、金沢にある大名庭園で、加賀百万石を誇った前田家によって造られました。日本三名園のひとつに数えられます。日本最古の噴水や、冬の雪吊りなどが有名です。その他、築山や茶屋など、さまざまな見所があります。
もともとは金沢城の中にありました。現在も金沢城跡とは橋一本で繋がっています。
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岡山後楽園(岡山)
岡山後楽園は、池田綱政に命じられた津田永忠によってつくられた大名庭園です。日本三名園のひとつに数えられています。
岡山城や周辺の山を借景とした池泉回遊式庭園で、たとえば綱政の時代には田園風景が多く設けられるなど、各当主の時代に、それぞれの好みによって改造されながらも引き継がれていきました。
当初は池田家のみが利用していましたが、江戸時代の後期には客人をもてなす用途でも利用させるようになりました。明治維新後には、池田家の財政難によって岡山県に売却され、岡山県が管理しています。
まとめ
今回は、池泉庭園について詳しく解説しました。
- 池泉庭園とは
池を中心とした庭園のこと。古くから神社の境内に設けられた神池・神島の影響を受けている。池や遣水、滝、石組、橋などが見所 - 池泉舟遊式庭園とは
池の中で舟を漕いで遊べるようになっている池泉庭園。平安時代の寝殿造系庭園などに多く、遣水を通って河川に出られるようになっているものもある - 池泉鑑賞式庭園とは
部屋から鑑賞して楽しむ池泉庭園。室町時代の後期には強大な権力者が減っていき、コンパクトな池泉鑑賞式庭園が増えた - 池泉回遊式庭園とは
池の周りを歩いて楽しむ池泉庭園。露地の影響を受けて、池の周りの道中にさまざまな見所を設けた大名庭園が江戸時代には数多く作庭された
ぜひ、池泉庭園の歴史や分類なども意識しながら、日本庭園を味わってみてください。
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